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2019年07月03週
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(前週よりの続き)
 腎臓病患者の人工透析を中止し、女性が死亡していたことが明らかになり(2019年3月7日、毎日新聞)、その後、経過なども明らかになっています。(「論座」)。

・公立福生(ふっさ)病院で透析治療を中止した女性患者(当時44歳)が、その後死亡した。
・女性は腎不全を患い、別の医療機関で透析治療を受けていたが、昨年8月、福生病院を訪ねて治療について相談した。
・福生病院の医師は、体の一部に管を入れる透析方法に加え、生死にかかわる危険性があるとの説明とともに透析しない選択肢も示した。
・透析中止後、死亡直前に、女性が中止を撤回する趣旨の発言をしたとの証言がある。
・この問題を受け、都が医療法に基づき病院に立ち入り調査を行う方針を示した。

 「論座」はこのことについて、以下のようないくつかの「まとめ」をしています。
 「報道によれば、この病院では、この女性のほかにも、終末期ではない患者に透析治療をしない選択肢を示していたとされる」
 「透析治療を受ける患者は年々増えている。日本透析学会の統計資料によれば、2017年末時点の慢性透析患者は約33万4500人であった。このうち、年間どれくらいの慢性透析患者が治療を開始しない、あるいは、途中で中止することで死亡しているのだろうか。
 「その正確な人数は明らかでないが、同医学会の資料によれば、2017年の慢性透析患者の死亡の原因のうち、『自殺と治療拒否(透析拒否)』が全体の0.6%(196人、男性146人、女性50人)であった。ただし、自殺と治療拒否の内訳が明記されていないため、正確な治療拒否がどれくらいあったか不明」
 「また、2017年から新たに『治療見合わせ』という分類が作られたが、集計表では血管疾患やいくつかの肝胆膵疾患などによる死亡と合わせて『その他』(3254人、10.4%)に分類されており、その内訳は公表されていない。だが、透析をしない、途中で中止するといった事例が一定数あることが推察される。福生病院の事例がどのくらい例外的な事例であるかは、さらなる調査が必要な事項だと思われる」
 以上、「論座」によっても、腎臓病患者が、透析治療を中止し死亡する例はほかにもありその事例も示されるように珍しいことではありません。で、「2017年の慢性透析患者の死亡原因のうち『自殺と治療拒否(透析拒否)』が全体の0.6%(196人、断裁146人、女性50人)」とされる、学会の統計資料によれば、確かに「年々増えて」おり、その数が2017年で33万4500人は確かに多いのですが、治療が理由・原因で自殺ないし、それを拒否し亡くなる人がいるのは事実なのです。福生病院の「透析中断、死亡」は新聞などで報道され話題にはなりましたが、珍しいことではないらしいのです。そして、人工透析そのものは、身近にもいましたし身近で亡くなった人もいましたから、透析とそれを続けることが、当事者にとって、なかなかの苦痛を伴うものであるようにも少しは理解できます。しかし、その身近な2人は、かなり長期間なかなかの苦痛を生きることはあっても、透析を中止することはありませんでした。ただ、透析日数が増えるに従って起こる仕事の不都合、増え続ける注射痕、食事制限などもあり年を経る毎におとろえる様子、更に自分を奮い起こして生きる様子に逆に会うたびに心を曇らせることもありました。
 そんなこともあり、報道されることになった、福生病院の比較的若い透析患者の死亡「事件」については、少ない情報ながら、「福生病院の医師は、体の一部に管を入れる透析方法に加え、生死にかかわる危険性があるとの説明とともに透析しない選択肢も示した」「話し合いの結果、女性は透析中止の意思確認所に署名した」には、少なからず違和感を覚えます。身近だった透析患者の一人は、遠く離れた生活でしたから、たまに出会うだけだったし、病院での生活になった時もほんのたまに見舞うことぐらいしかできませんでした。もう一人の場合は、透析の回数が増えることがあっても、可能な限り居場所を共有することだけはしてきました。そんな時も、本人が抱えている苦痛にたいして寄りそえた訳でもありません。いずれの場合も、ほとんどは、家族、より身近な人たちが引き受けて、看取ることになったのだと思えます。福生病院の「事故」の場合、報道ないし「論座」以外のことは解りませんから、多く言及するのは難しいのですが、医師が「透析しない選択肢も示した」というのは、少なからず解しかねるように思えます。「透析しない選択肢を示した」は、すなわちこの女性患者の死を意味します。具体的に、医師と患者にどんなやり取りがあって、「あなたの場合、もう透析は止めたほうがいい」と言う指示になったのか、それ以上のことは解りません。しかし、医師と患者が向い合った時、たとえば患者が生きる条件によっては「…それだったら、確かに透析を続けることは苦しいこともあるのはあるが、ご家族を含めた周囲の人が応援してくれるのであれば、もう少し頑張れるんじゃないですか」と言えたかもしれません。この患者の状況を医師として見聞きして、そうした理解と援助が得られないのであれば、「…なかなか大変ですね!これ以上良くなる可能性はないのですから無理はされないほうがいいですよ!その場合、透析を中止するという選び方もあります。もちろん、その場合あなたの意思確認所に署名してもらう必要がありますが、どうされますか」と聞きながら示唆したとしてもあり得ることです。しかし、もし、その社会が、35万人とも言われる透析患者について、どうであれその人たちの個々の状況を考慮しながら、何よりも生きることを応援するきめ細かい社会の形を持っているとすれば、透析中止を急ぐことはなかったりするはずです。福生病院の「事件」になったこの患者の場合、そのいずれも本人の実感に届くものではなかったとすれば、この時の医師の示した選択肢、本人がそれにゆだねたこともやむを得ないということになります。しかしそれは、この患者がその時の人生の明日を、生きるに値したかどうかとは全く別の問題であり、そのすべてを条件はどうであれ、生きるか死ぬかの判断を当事者だけにゆだねていいと言うことにもならないはずです。しかし、この国と社会は、生と死の、生きる可能性をその人がたまたまその時に持っている条件及び判断にゆだねてしまっています。言ってみれば弱い立場の人たちに冷酷と言うか、優しくはない社会ということになります。そして、福生病院の医師、日本透析学会は、結果的にこの女性患者の透析中止を容認し、死に至らしめたとすれば、人間の生死に恣意的に関与したという意味で、医師、学会の名において、人間存在の根本的理解をはき違えていると言わざるを得ないように思えます。
(次週に続く)
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