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小さな手大きな手

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2019年07月04週
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(次週よりの続き)
 少し時間は経っていますが、新出生前診断及び、腎臓病患者の人工透析の中断で亡くなった「事件」の報道は、気になっていました。だいぶ遅れて、新聞の「オピニオン&フォーラム」(7月6日、朝日新聞)の「『死すべき者』の生き方」(佐伯啓思)を目にすることになって、少なからず命のことに距離がある、ないしは余裕を持って見ることができる人たちが、それをもてあそんでいるように思えて、前掲の文章をくどくど書くことになりました。
 ちょうどその時に目にすることになったのが、「筋ジス病棟を出て暮らす/古込和宏/解説、立岩真也」でした。それはいつの頃からか、近くの書店に届けてもらっている「季刊・福祉労働」の最新号の表紙に示されている内容の最後に紹介されている古込和宏の「遺稿集」でした。単に遺稿集だったら、目にとまらなかったような気がしますが、それが「立岩真也=解説」だったこともあり、解説を読んで遺稿集を読むことになりました。一読して、遺稿集及び筋ジストロフィーを病む人たちが、それを病んで生き、死んで行く事実に、強い衝撃を受けることになります。紹介されている遺稿集は、別に発表された3つの文章で構成されています。1つ目は「誰にも明かせない胸の内」で、発病した8歳の頃に、国立療養所医王病院での生活が始まり、成人してもずっとそこで生活し続けることになる自分や同じ筋ジストロフィーの人たちのこと、2つ目は「互いに殺しあう存在」で、「2016年2月、川崎の老人介護施設で起きた利用者(老人)の謎の転落事故が、実は職員の凶行だった」ことについて、同じように施設が生活の場になっている立場の人間としての考察、3つ目は「筋ジス病棟と地域生活の今とこれから」で、そこ・筋ジス病棟を出るのは「死亡退院」でしかあり得ない、そこから37年近く経っての「脱出」について、となっています。そんな具合ですが別々の文章という訳ではなく、時には交差させながら、「1972年4月26日輪島に生まれる。筋ジストロフィーと診断され、1980年、国立療養所医王病院に入院、2017年10月、37年を経て医王病院を退院。享年47歳」が記述する遺稿です。衝撃的なのは、筋ジストロフィーを生きる人たちの事実のみならず、この国の、それら施設及び事件を洞察するこの人の「理性」です。
 遺稿集の古込和宏は、医王病院に入院はしますが、「医療依存度」が高い訳ではありません。確実に病状が進み、死に到りますが、治療が難しい難病が筋ジストロフィーです。そこで医療がなし得るのは、治療ではなく、生きる為の身体機能が確実に失われて行く患者の生活支援です。しかし、そこしかない生活の場であり、別に生活の場が得られないために「生活する」病院です。「医療依存度も高くないのに、子どものころに親子が引き離されるのは辛く、子どもにとっては残酷でしかないと思う」「成人になると事情は少し変わってしまい、家にいても病院にいても辛くなり自分の居場所はないと感じるようになって生きづらくなり始めた」、だからと言ってそこしかないとして生活し続ける場所が、筋ジストロフィー患者が「収容」される病院です。そのことへの「疑問」と、けれどもそのことへの「納得」が、たとえば次のような文章になっています。「ある男性ナース」が「(泣き止まない)福山型の子の頬を掴むようにして口を塞ぎ『うるさいとのどに穴開けて気切(気管切開)にして声出なくするぞ』脅していた。そんなことをやっても、その子には理解できないことを知っているはずなのに、本当に愚か過ぎる」「今でも病院はそんな場所だと感じることがある。それでも私も含めて患者に許される居場所は今でも病院しかない。医療を否定して生きられると思う患者なんていないはず。だから誰も胸のうちの苦しみを声に出せないのだと思う。誰も言わないのではない、自分を殺してまで生きるために言わないだけである」。「生きる」と言うことは、「自分を生かす」ないしは「自分が生きている」という実感を得る、それがある為に「生きる」のだと思う。古込和宏の生きる、筋ジストロフィー病院は「自分を殺してまで生きるための場所」でした。 
 ずばっと、ある意味で何気なく書かれているように読めなくはないこの一文は、実は、多くの人たちが「生きる」社会が実はそうであることをえぐり出しているように読めます。2つ目の「互いに殺しあう存在」で取り上げられているのは、老人介護施設です。そこもまた「自分を殺してまで生きるための場所」でなくはないのは、そこで生きることになった老人たちが、老人であることによって設けられた多くの制約です。多くを見聞きしている訳ではありませんが、父たちが世話になっていた施設は、厳重(そうでもなかったか)に閉鎖されていました。建物の外観は、明るく(オレンジ・ピンクなど)で塗装されていましたが、老人たちが入院生活を送る部屋の、壁やベッド、寝具類はおおむね白色でした。生活は、フロアー毎の集団生活で、個々人に対応する介護・人手は得られませんから、生活の多くは「じっと待つ」ことになります。開放された部屋・病室の同じフロアーに、女性と男性が同居していますが、その「性」のことは全く考慮されませんでした。が、生きた人間の「性」は、そんな訳には行かないのは、一緒に祖父を訪れた「娘」が、「さっきすれ違った人に、おしりを触られた!」と言ったりしたことが、1度や2度ではありませんから、この人、おじいちゃんはそこに居たとしても、間違いなく男なのです。なのにそこは、老人介護施設は「自分を殺してまで『生きるための』場所」なのです。
 で、川崎の老人介護施設、転落事故が「実は職員の凶行」だったことについてそこで起こっていることを言及するのが2つ目の「互いに殺しあう存在」です。「ネットでは容疑者を鬼畜扱いする動画などを見かけるが、決して違うと思う。ごく普通の人で、社会の中で生活しているが、職場環境に豹変させるものがあり凶行に走らせた。それだけだと思う」。しかし、古込和宏のその事実を見つめる視点は、そこで止まりません。「私が分からないのは、なぜ直接的な行動に出たのかだが、『冷酷な理性』を駆使すれば、見て見ぬふりをしても殺せるし、廃人にもできる。事件を容疑者の凶行として、社会の片隅にある閉鎖的で異質な空間の中にある闇の部分を覗き込もうとせずに風化させて終われば、弱者に刃が向く社会は永遠に続くだろう」。
 この言及、指摘から読み取るべきなのは、もし、この社会に「社会の片隅にある閉鎖的で異質な空間」が存在するとすれば、そこだけでなく、それを容認することにおいて、社会全体が、「どこも、ここも」異質な空間を抱えかつ存在させているだろうことです。というのは、その閉鎖的で異質な空間は、キィワードである「自分を殺してまで生きる場所」として、どうやら子どもたちの場合は学校、働く大人だったら職場ということになります。
(次週に続く)
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