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小さな手大きな手

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2019年08月01週
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(次週よりの続き)
 学校の社会的・現代的な定義は、そこは行かなければならない場所であり過ごさなければならない場所です。そのことから外れると「不登校」と言われますから、外れる、行かないという選択は、子どもたちはもちろん保護者にとっても、大きな負担になります。もう一つの学校の定義は、決まった規則にしばられる場所であり、時間であることです。そこに行き帰属する限り、決まった規則に拘束され従うことからは、子どもたちは決して逃れることはできなくなります。しかし、子どもである人間は、人間である限り、決まったワクではくくりにくい存在で、未完成の子どもの場合はなおのことです。出自が違い、育ってきた環境も違い、本来は違うものとして存在する生きものである人間の子どもが、前述の学校の定義の中で生きなければならないとすれば、そこは間違いなく、「自分を殺してまで生きる」場所ということになります。
 人間が働くようになるのは、その準備期間の人生を生き、自分に備わった力量で、自分が選ぶないし与えられた仕事を生きる糧とすることを意味します。その場合、一人一人が、自分に備わった力を試しかつ挑戦する世界に足を踏み出すことになるのですが、時には力量を超えている、挑戦を退ける場合がなくはありません。それでも、そこから生きる糧を得るのであれば、どこかで納得するか、別の場所を求めざるを得ないことも起こり得ます。しかし、そこが、「自分を殺してまで生きる場所」だったりする時、事はそれでは済まなくなります。そんな時の子どもたちの学校、働く人たちの職場で起こり得るのが古込和宏の「互いに殺しあう存在」で示唆されます。「ネットでは、容疑者を鬼畜扱いする動画を見かけたが、決して違うと思う。ごく普通の人で、社会の中に生活しているが、職場環境に豹変させるものがあり凶行に走らせた」「私が分からないのは、なぜ直接的な行動に出たのかだが「冷酷な理性」を駆使すれば見て見ぬふりをしていても殺せるし、廃人にもできる。事件を容疑者の凶行として社会の片隅にある閉鎖的で異質な空間にある闇の部分を覗き込もうとせず、風化させて終われば、弱者に刃が向く社会は永遠に続くだろう」。
 子どもたちが生活する学校、人間が働く職場で、一方では「いじめ(それと連動すると考えられる子どもたちの自殺)」他方では「パワー(セクシャル)ハラスメント」が常態化しています。社会が、自由奔放でそれを煽動する情報があふれかえっている時、子どもたちの学校はそんなことは一切知らない、関知しないことにして、更に子どもたちの学校の時間と場所を閉ざしています。そうして閉ざされた場所の、「閉鎖的で異質な空間」であることの事実を認めようとしません。
 働く人たちの職場は、利益を追求することが至上命令で、そこは激しい競争原理で成り立っています。その中に入ってしまった人間は、どっぷりそこにつかってしまった時、競争原理が絶対であるその場所が「閉鎖的で異質な空間」であることに気付かせません。結果、そこで起こる「パワー(セクシャル)ハラスメント」で、人間を壊されることになってしまいます。
 こうして、広く社会を取り囲みかつ覆う「閉鎖的で異質な空間」が、「2016年6月2日、川崎の老人介護施設で起きた利用者の謎の転落事故が、実は職員の凶行」であったり、「2016年7月26日に相模原市の障害者施設で入所者19人が刺殺され26人が負傷」「犯人が元職員」であった事件とつながっていることを指摘しえぐったのが、古込和宏の「互いに殺しあう存在」です。であると、つなげて考えたとしても、誤りではないように思えました。こうして、人間存在の可否を他者が決めるに到る現象が、障害者、老人の施設であったり、閉鎖的になっている子どもたちの学校、大人の働き場所だったりします。
 しかし、そうなってしまっているのは、人間の可能性や多様性を否定的にとらえてしまう、社会全体の状況(暗い)があるように思えます。ですから、「思想家」佐伯啓思の「異論」は、「『死すべき者』の生き方」になり、結びのように、「多様な死に方を認めるほかなかろう」と、ひたすら否定的に、死ぬべき命の「死に方」への関心に向いて行きます。
 人間はもちろん、生きものすべては死んで行くにせよ、同じように通底しているのが、多様な「生き方」であり、そこからの考察は当然あってしかるべきなのです。7月26日で3年を迎える「津久井やまゆり園」の事件について、そのことを言及する本のうち3冊をもとに書評の形で考察しているのが、「『生きる価値』の大切を問う/やまゆり園事件から3年」(立岩真也、7月20日朝日新聞)です。その中の一冊「生きている!殺すな」(編集委員会〈編〉、山吹書店)は、その表題の通り、「死すべき者」として施設での生活を余儀なくされた人たちが、「生きるべき者」として「生きる価値」を取り戻す人たちの「生きている!殺すな」の視点からの「やまゆり園事件」の考察です。
 「異論」の佐伯啓思の「死すべき者」の生き方の考察は、「安楽死」を選んだ女性の「NHKスペシャル」から始まります。「この女性は多系統萎縮症という難病を宣告され、徐々に身体機能を失ってゆく。回復の見込みはない。最後の選択は、まだしも自分の意思が明確に伝達でき、スイスまで移動できるだけの身体機能が残っている間に安楽死することであった」。
 古込和宏がそうであったように、「生きている!殺すな」に文章を寄せている見形信子は、脊髄性筋萎縮症でおよそ30年近く施設で生活し、そこを出てから20年になります。古込和宏が選び見形信子が選んだのは、「『死すべき者』の生き方」としての人間ではなく、「『生きている人間』の生き方」です。2人にとって、「生きている人間」でありながら、長い人生を過ごし暮らした施設の生活の一端を、見形信子は次のように書いています。「私は中学生の時から大人になっても、長い間、入所施設での生活を余儀なくされました。その期間は16年になりました」「逃げ場がなかったので、嫌なことがあると家に帰りたくなりました。脱走する仲間もいたし、自殺する仲間もいました。たくさんのいじめや虐待がありました。夜中に体が痛くて、寝返りを打つためにコールを押したけれど『待ってて』と言われたままで、2時間放置されるのは当たり前…」「一人の職員が、鳥に餌をあげるように自分の周りに入所者を並べて食事介助をするのだけれど、食堂にも部屋にも職員が一人か二人しかいないので、一口食べて二口目が回ってくるときには、冷え切った食事になってしまった」。二口目を待つことも、食事が冷え切ったとしても、それだけだったら耐えられなくはなかったのでしょうが「生きている人間」であることが否定されるとしたら、他方で、生きて死ぬ場所がそこしかないことを骨の髄までしみ込まされたとしても、そのすべてが「生きている人間」として納得できなかった2人は、そこから脱出を選びます。
 これは、ただそうした、そうしなかったということではなく、「選んだ」のが「『生きている人間』の生き方」を実現する世界への脱出であったことです。
 「津久井、やまゆり園事件」から3年、新聞(7月22日、毎日新聞)で書評しているのが、この事件をめぐって書かれている3冊の本です。一方で、この書評は、前掲の佐伯啓思の「『死すべき人間』の生き方」として肯定されている「安楽死」について言及しています。障害者の施設で、46人が殺傷された事件が、社会に投げかけた衝撃的でかつこの国の社会を揺るがしたのは、「犯人」の「生きてよい人/死ぬべき人」を「分ける」思考への「反論」です。
 「反論」は、「『生きている人間』の生き方を見つめ生きてきた静かな怒り」として貫かれています。「…分けるのはなぜか言ってみろと詰問し強く『圧』をかけてればよいと思った」しかし、社会も、時にはそれを代弁する情報なども、「言いよどんで」しまっています。「…しかし、被告も記者たちも今は既に大変でこれからも社会はもっと大変になるという話を聞いて育った。それで被告は信じ込み、周りは言いよどんでしまっているという感じだ」。で、佐伯啓思が論ずる「安楽死」におよびます。「…そして、こうした暗い不安のもとで、病・障害を得て、生きる困難を思い、生きる価値がないと信じて、自ら死ぬ人がいる」(前掲、NHKスペシャル)、「むろん、殺人と自殺とは全く異なる。しかし、生きる価値がないというもとにある理由は同じではないか」「だが前者は責められるが、後者は美しいこととして描かれる。この間もそうしたテレビ番組があった」。「…その大切な命を捨てて、障害者でなくなろうというのだから、その否定の思いはむしろ強いとさえ言える」「人をそんな思いにさせてよいのか」「それを否定するような描き方をするのがよいのか」。
 多分、そして明らかなのは、「異論」を書く佐伯啓思のような思考・生き方そしてその視野には、施設で生きてその外のしゃばに、「『生きている人間』の生き方」があり得ることを見つけ、そこから脱出したいと切に願い、そこから脱出して生きている人間は皆無であるに違いありません。


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