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小さな手大きな手

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2019年08月04週
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 8月5日~9日の子どもたちの沖縄キャンプは、台風の影響でキャンプをする施設のすぐ裏の海が荒れて遊べなくなってしまいました。今帰仁村から本部へ向う海は、干潮になると100メートルくらい先まで潮が引いてリーフが現れ、残った深さが1メートルぐらいの潮だまりで青・黄色などの熱帯魚たちが泳ぎ、潮が戻ってくるまでの2時間ほど、遊び相手になってくれます。台風9号の風の波が、終日リーフをおおい、海では遊べなくなってしまった為、2度にわたって国頭半島の方へ向ったりもしました。そんなことにもなったので、みんなで今帰仁村の図書館を訪ね、沖縄に関する本を探してみることになりました。着いてすぐたくさん並んでいる沖縄関係図書の棚で、スタッフの一人が見つけたのが「今帰仁村方言辞典」で、著者は仲宗根政善となっていました。すぐ近くで見つかったのが、「追悼・仲宗根政善」です。言語学者で琉球大学の先生であった時の「教え子」たちがたくさんの追悼の言葉を寄せていましたが、言語学者としての仕事の評価、沖縄戦を当事者の言葉として集め記録した最初の仕事をした人として、その仕事・本「沖縄の悲劇/姫百合の塔をめぐる人々の手記」を高く評価していたのが仲里効です。沖縄の人たちにとっては周知の書物なのでしょうが、全く知らなかったこの本を、たくさん並んでいる沖縄の本の中から、今帰仁村図書館の人が探してくれました。沖縄県立第一高女の教師でもあり、女子生徒と行動を共にし生き残った生徒たちの手記を、自分も生き残ってまとめたのが前掲の仲宗根政善の本です。一章の「陸軍病院の日々」を読み始めましたが、子どもたちは2時間ぐらいで図書館の時間は限界でしたから、その一章部分だけ(約60ページ)コピーしてもらうことになりました。まず先生・中曽根政善の、1945年3月24日からの状況を語る解説があって、「手記」が紹介されます。その時の第一高女の沖縄・那覇は、米軍の上陸を前に激しい空襲にさらされていました。「付属校(沖縄女子師範)の前から練兵橋を通って識名の坂にかかった。『十十空襲』ですでに焦土と化した那覇市の残骸が深い月影に照らされていた」。言われている「十十空襲」は、前年1944年「十月十日」の空襲で、そのことも書かれています。「善興堂病院の入院患者十数名が圧死、県病院の患者多数が焼死、連隊区司令官井口大佐が殉職、中村眼科医が焼死と、つぎつぎと悲報が伝わった」「燃えさかる第二中学校の黒煙がうずまいている。墓石の中を煙をはらいなら進む。電気会社の焼けこげた壁が、三角定規のように炎と煙の中に突っ立ち、県病院、松山国民学校、第二高等女学校、大典寺と久茂地町から松山一帯が紅蓮につつまれている」。
 当時のアメリカの戦争は、まず空から及び包囲した艦船からの砲撃で、「敵」の反撃を徹底的に破壊します。1945年3月の時点で、女子生徒たちが動員されることになる「陸軍病院」は、すでに本来の機能を失っていました。「病院(陸軍病院)は丘の両面から中心に向かってムカデの足のように壕を掘っていた。各壕を丘の背骨で連結し、縦横に貫通する計画だと聞いたが、まだ工程の四分の一もはかどってはいなかった」。その「陸軍病院」で働くことになった女生徒たちの最初に紹介されているのが「城間和子の手記」です。「4月26日朝、佐久川米子が壕の入り口で機銃にやられたことを上原婦長がはせつけて報告してくれた。下肢に弾を受け、骨はぐしゃぐしゃに砕け、表皮にぶらさがっているが、生命に別状はないとのこと、飛行機はひっきりなしに飛びまわっていて、壕の外には一歩も出られなかったので、暮れるのを待った。ところが間もなく容態が急変して、ついに死亡したとの報告があった。かけつけて見ると小さい壕でしずくは降るようにしたたり、ぬかるみの上に板を渡し、やっと通れるほどのむさ苦しい壕であった。生ぬるい空気が充満し、臭気がひどく鼻をつく。多くの負傷兵の中に佐久川が安らかに眠っていて、その周囲を、四、五名の学友がとりまいて泣きじゃくっていた」。
 おびただしい人たちが死んで、負傷し運び込まれてきても、誰かが死なない限り受け入れる余地のない「陸軍病院」は、最初の生徒の犠牲者の後、そこを放棄し、生徒たちの犠牲を増やしながら、沖縄島の南へ向うことになります。そうして死地をさまよった生徒たちの手記が「悲劇の沖縄/姫百合の塔をめぐる人々の手記」です。手記の残りの部分のコピーを、今帰仁図書館に依頼したりもしましたが、別に入手も可能なことが解り、現在取り寄せているところです。
 自分がその惨状を見て生き残ったとしても、沖縄の戦争はそれを書くことはた易いことではありませんでした。むしろ、たとえ生き残ったとしても、多くの人たちはその事実に口を閉ざすよりありませんでした。生き残る者と生き残れなかった者との間にあった事実の余りの重みが、語らせることを断念させるからだと考えられます。「悲劇の沖縄」が、戦争の当事者をして語らせた最初の手記であるとするなら、それを可能にしたのが仲宗根政善です。
 30万人近い軍人、軍属が送り込まれ、20万人近くが、戦病死、餓死したとされるパプアニューギニアから生きて帰った父はその戦争について、「捕虜・逃亡兵は食べてよかった。飯盒で運んでいるのを見た。僕は食べなかった」と一回だけ口にしました。そんな途方もないことを聞いてしまった限り決してそれで終わりにはできないはずで、今度は聞く側に立ったことが、逃れられない責任であるように思えましたが、聞いた後の長い年月、結局は聞く位置には立てませんでした。聞く限りは、その事実のかけらでも共有できる存在であることが必要なのでしょうが、父が生きている間には、その位置には立てませんでした。何よりの後悔です。その後悔を、亡くなった時の「告別」の言葉で話しかつ書くことになりましたが、戦場で体験し見てしまった重みを生きた父にとって、何一つ答えにはなっていないように思っています。仲宗根政善が沖縄戦の女生徒の「手記」として集め、一冊にまとめたのは、女生徒たちが死んで行った戦争の事実と、生き残って言葉として残した、本来はあり得ないことをなしたという意味での仲里効の評価だと言えます。
 戦争とその重い事実を、戦争の後も語ることなく生きた人たちは、どうであれその現場を生きてしまった時、事実を言葉にできないまま、自分の心の奥深く閉じ込めて生きて死んで行きました。それが、生き残って死ぬまで終わることのなった、父たちの戦争です。姫百合の生徒たちは、仲宗根政善のような人を得て、すべてではないにせよ、重い事実を自分の心の奥深く閉じ込める一方、いくばくかは外に向って言葉として残しました。だからと言って、その断片として残された言葉で、自分の体験から解放された訳ではありません。なぜなら、どんな意味でもそこから解き放たれることのない、戦争の悲惨を生きてしまったからです。
 そんな戦争を、他の誰よりも決定、遂行することにおいて責任のあった人の「肉声」(らしきもの)が、明らかになっています。「終戦後の初代宮内庁長官だった田島道治が在任中昭和天皇とのやり取りを詳細に記した文書が明らかになった」「文書によると、昭和天皇は、独立回復時に国民に声明を出すことを望んだ。草案作りが本格化した52年1月11日に『私は反省といふ字をどうしても入れねばと思う』と田島元長官に述べ、同年2月20日には『私の届かぬことであるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰り返したくないものだ』と語った」「『再軍備によって旧軍閥式の再擡頭は絶対いやだが去りとて(ソ連の)侵略を受ける脅威がある以上防衛的な新軍備なしという訳には行かぬと思ふ』と述べたという」「『南京事件』について『南京でひどい事が行われているとハ事をひくい其の筋でないものからウスウス聞いてはいたが別に表立って誰もいはず従って私はあの事を注意もしなかった』とされる」。
 戦争の惨状をその現場で生きた人が、重い事実を口にする事なく死んで行っている一方で、戦争の決定・遂行の責任者であったこの人は、その重い責任の事実を「軍も政府も国民もすべて」にし、「聞いてはいたが」で済ませ、「天皇」として生き延びました。
 そんな戦争の敗戦から74年、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われた時の首相は式辞で「戦争の惨禍」に言及します。
 「先の大戦では、300万の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、戦陣に散った方々。終戦後、遠い異郷の地にあって、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市の爆撃、沖縄における地上戦などで、無残に犠牲になられた方々。今、すべての御霊の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます」(2019年8月16日、朝日新聞)。こうして、「式辞」を述べるには、しかし、「沖縄における地上戦などで、無残に犠牲となられた方々」が、どんな無残な死に方をしていったかについては、たぶん思いは及んでいないはずです。「…腐敗しきった傷口を見ると、あんなに怒るのも無理のないことだと思えた。包帯を巻く手には白いシラミが這い上がってきた。フッフッと吹き落とし、吹き落とせないのは、隣の患者が払い落としてくれた。鼻につく臭気に息がつまり、素知らぬ風をして顔をそむける。腹の底から沸き返るような吐き気に、幾度か身震いしながらボロボロに腐った包帯をといてゆくと、中から湧いてくる想像もつかぬほどの蛆虫(ウジムシ)」。
(「悲劇の沖縄」著:仲宗根 政善/華頂書房より)

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