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小さな手大きな手

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2019年09月03週
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1964年頃(だったと思う)、当時の大学の学部自治会(関西学院大学神学部での代表をしていた。留年し、教授会からも「要注意」でしたが、誰も代表を引き受けない中での代表でした。政治的というより、解らないなりに納得が行かないことは「納得が行かない」まあ性格もあって、アメリカのベトナム戦争に反対する学生の行動には、呼びかけが聞こえてくる範囲で、京都・大阪・神戸などの抗議行動に出かけていました。そんな頃に、分断国家となっていたその一方の南朝鮮・大韓民国と単独で国交を樹立する「日韓会談」が進められていました。1951年から始まった会談を経て、1965年6月に、朝鮮半島の南の部分だけと調印されることになったのがおよそ次のような条約・協定を内容とする「日韓条約」です。
・日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約
・日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定
・日本国と大韓民国との財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定
・日本に居住する大韓民国民の法的地位及び帰還に関する日本国と大韓民国との間の協定
・文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定
 こうしてまとめられる会談・条約について、反対行動を他の自治会にも呼びかけて取り組んでいました。主な取り組みは、学習会と反対行動で、学習会が終わると参加者に呼びかけ、神戸市街をデモ行進したりしていました。
 学習会の講師に来てもらっていたのは、井上清(京大)、和田洋一(同志社大)、鶴見俊輔  (同志社大)などでした。
日韓条約について、それが不当であり、反対せざるを得ないとして、それらの人たちが理由にあげていたのは、前記の条約・協定が、朝鮮半島の分断国家の一方だけであること、当時の朝鮮半島の状況に、植民地支配の重要な責任がある日本が、その一方とだけ「平和条約」を結ぶのは、「分断」を承認・助長することになってしまうこと、および大韓民国の状況理解でした。朝鮮半島に2つの分断国家ができてしまうにあたり、南・大韓民国に絶大な影響力を持っていたのがアメリカです。いわゆる米・ソの東西冷戦のせめぎあいの最先端の一つが朝鮮半島で、分断もこの冷戦下で起こってしまったことの一つです。当然、アメリカが強い影響力を行使する、半島の南・大韓民国も、冷戦の一端を担わされることになり、望むと望まざるにかかわらず同じ民族の北・朝鮮民主主義人民共和国とも厳しい対立を強いられることになりました。その時に、何よりも主張されたのが、米・ソ冷戦の一方の側、アメリカの立場・主張である「反共主義」でした。その強い主張で、東西冷戦の極東の最先端に大韓民国が位置づけられたとしても、南であれ、北であれそこで生きてきた人たちにとっては、一つの朝鮮半島の国家である願いは押さえ難かったし、むしろ当然の願いでした。しかし、戦争状態の休戦で対峙することになった大韓民国では、たとえ共産主義の北・朝鮮民主主義人民共和国であっても、柔軟な対話を経ての統一への願いは強かったのですが、それは徹底的に弾圧されることになりますが、反共を・・強権的に支配することになったのが、1948年に大統領になった李承晩です。「李承晩には、共産主義と日本の植民地支配に対する強い憎悪が共存していた。とくに、反共のためには手段を選ばないという側面があった」(「朝鮮の歴史」朝鮮史研究会編、1974年、三省堂)。その李承晩の反共・強権軍事独裁は、1960年になって民衆の徒手空拳の怒りの前に倒れることになります。「4月19日(1960年)、この日ソウルでは10万人をこえる人々がデモにたち上がり、大統領官邸にむかった。警察は実弾射撃で鎮圧しようとしたが、もはや警察力だけでは対抗できず、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。それでもなおデモが続けられ、4月26日には、ついに李承晩も退陣しなければならなかった。韓国ではこれを『4月革命』とよんでいる」「『4月革命』では、死者186、負傷者1000名以上という犠牲を払わなければならなかった」(前掲書)。
 「この『4月革命』の潮流は、1961年のクーデターによって大きな妨害に直面した」「1961年5月16日、とつじょ一部軍人によるクーデターがおこり、立法・司法・行政等すべての権力が『軍事革命委員会』(のちに『国家再建最高会議』、議長朴正煕1917年~)に掌握された。同委員会は、全国に非常戒厳令をしき、いっさいの議会・政党・社会団体を解散させた。つづいて『反共を国是の第一義』をするなど、六項目の『革命公約』を公表し、反共体制の再編・強化に着手した」(前掲書)。この「反共を国是」は、朝鮮半島の南北統一を願う主張もすべてそのようにみなされ、厳しい弾圧にさらされることになります。李承晩の後で始まった、より徹底した軍事独裁政権の誕生、それが朴正煕大統領の時代です。
 1965年頃の、西宮の大学の学生が、学生として学習し、主張した「日韓条約反対」の行動は、前述のように、朝鮮半島の分断を認めかつ助長する、交渉の相手が、軍事クーデターによって誕生した独裁政権であること、そこには過去や未来を見すえた、朝鮮半島の人たちとの信頼関係を築くことには決してならないという危機感にもとづいていたように思えます。にもかかわらず、強行された日韓条約の項目に挙げられている3,4項は、もしそのことが2つの国が対等で、かつ植民地支配の事実の理解を共有することが前提になるとすれば、支配した側の責任が厳しく問われなければならなかったはずです。しかし、その時の日本は植民地支配の責任を自ら問うということはありませんでした。もし、それがあったとすれば、分断国家となってしまっている朝鮮半島の一方とだけ平和条約・日韓条約を結ぶということはあり得なかったはずです。要するに、朝鮮半島の植民地支配という、あってはならない負の歴史的事実を、条約を結んだ当事者が、肝心の部分で素通りすることへの怒りで、1965年の西宮あたりの学生も、条約に反対の意思表示をすることになりました。
 以来、今日に到るまで、中でも植民地支配の支配者の側である日本は、この時の条約ですべてが終わりになったとしてきました。一方、軍事クーデターの独裁体制が続いていた、大韓民国で生きる人たち、中でも、弾圧される人たちにとってはすべてを終わりとして了解することはあり得ないことでした。徒手空拳のいわゆる民衆の闘いは、朴正煕大統領の後も続く政治体制の中で、おびただしい犠牲を払いながら闘い続けられます。1987年の朴正煕大統領の「終身」化に対する徒手空拳の闘いが、それを阻止したように、おびただしい犠牲を払いながら繰り返されます。その時の民衆の願いを踏みにじる、独裁政権の背後に居続けてきたのが、日韓条約を結んだ日本です。こうした政治的背景を色濃く宿しながら国家としてあるのが大韓民国です。ただ、そんな政治に甘んじてきたわけではなく、1987年の闘いがそうであったように、そんな状況のどんな事態であっても、民衆の中には、李承晩を倒し、朴正煕を拒絶した朝鮮半島の平和的統一の願いは生き続けてきました。

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