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小さな手大きな手

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2019年10月02週
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 「安倍首相の所信表明演説」(2019年10月4日、衆議院)が、基本的に立っている歴史・人間理解を特徴づけているのは「…この議場(1946年、日本国憲法下、第一回国会)に集まった人たちのまなざしは、ただ未来にのみ向けられていた、ひたすらこの国の未来を信じ、大きな責任感の下に議論を重ね…」に示されています。その時の「この国」は所信表明の示す「戦争ですべてを失った我が国」「いまだ、塗炭の苦しみの中」にあった我が国でしたが、「すべてを失った」こと、「塗炭の苦しみ」の「何故」を、たぶん、とっても大切なはずなのに、問うことはしません。
 所信表明の第一にあげられるのは「一億総活躍社会」で、更にその冒頭は「教育の無償化」で、その意味するところは「子どもたち誰もが、家庭の経済状況にかかわらず、自らの夢に向かって頑張ることができる」「社会を創り上げる」がこの人の「一億総活躍社会」、即ちこの人が理解する社会の担い手、いいえ歯車として育てたいのです。だから、いわゆる少子化を「国難」などと言ってしまいます。いわゆる少子化はこの人にとっては「国難」かも知れませんが、当の子どもたちにとっては、全く別の生存をおびやかす事実となって襲いかかっています。何よりも、子どもたちの生存する社会そのものが生存をおびやかしている事実です。
 人間という生き物、そして子ども時代を経て育つ人間は、他のどんな生き物を凌駕する可能性を秘めて成長し、更にその歩みを止めることはありません。その可能性が開花し、社会を構成する一員になった後も欠くことのできないのが、その人間としてのつながりです。言葉を変えて言えば、その時々に可能な限りの助け手を得て育ち、助け手とつながって生きるのが、人間という生き物なのです。「無償化」が念頭に置く子ども時代であれば、それを荷うのは「子育て世代」だけでは荷が重すぎる。多様な人間の関わり見守りがあって初めてそれは可能になります。たとえば、それが「家庭」である場合、祖父母、兄弟姉妹が欠くことのできない、子育て(育ち)の一翼を担うことになります。地域社会、それらを大きく取り囲む自然もまた、子育て(育ち)には欠くことができません。そして何よりも、そうして生まれ育つ子どもこそが誰よりも何よりも尊重されなくてはならないのはもちろんです。たぶん、この人の「一億総活躍社会」には、いずれは社会の一翼を担う、社会の為の子どもが想定されていたとしても、どんな意味でもおびやかされてはならない人間存在として子ども及び子ども理解はすえられていないはずです。

世界中の子供たち、ぼくらはそうしよう
どこまでも続く浜辺に集い
砂の城をつくり 海に船を浮かべよう
大人たちが争い 次々と仮面をつけかえて
自分たちの意見を主張しているあいだに
ぼくらは時の海へ漕ぎだそう

世界中の子供たちよ ぼくらがなしとげよう
歌と踊りと無邪気な喜びで
温かな抱擁と愛に満ちたキスで
ぼくらはそれを なしとげよう
(「ダンシング・ザ・ドリーム」マイケル・ジャクソン、ソニー・マガジンズ)

と書いた、マイケル・ジャクソンは、「子どもには無条件に愛される権利があると、7つの権利」を提案しています。
「すべての家庭に子ども国際権利章典が取り入れられるよう提案します。その条項は…
1. そのままで愛される権利。自ら求めずとも。
2. どんな場合でも守られる権利。
3. かけがえのない存在だと感じられる権利。何も持たずにこの世に生を受けようとも。
4. 話を聞いてもらえる権利。たとえおもしろくない話でも。
5. 寝る前に読み聞かせをしてもらう権利。夕方のニュースを優先されることなく。
6. 教育を受ける権利。学校で銃弾におびえることなく。
7. かわいがられる対象となる権利。たとえ母親しかかわいいと思わないような顔だとしても。」
(「体罰と戦争、7、マイケル・ジャクソンの思想――子どもの癒しは世界の癒し」森田ゆり、かもがわ出版より)

 たとえば、そうだとすると、所信表明の「教育無償化」には子どもという人間の理解、存在が根本において欠落しています。そして無償化されるその現場では、「いじめ」「不登校」が広く常態化しています。そもそも「不登校」という定義が、マイケル・ジャクソンのあげる「子どもの国際権利章典」を、その定義によって踏みにじっています。「一億総活躍社会」の中に位置づけられる「教育無償化」の行き着く先に想定されている「正社員化」「バブル崩壊により就職難で苦労した方々への、就労支援」も、人間を「労働力」によって評価する社会へと組み込む仕組みとして考えられているにすぎません。たとえば「15年前、一人のALS患者の方にお会いしました」「友人」であるその人をあえて固有名で取り上げ「障害や難病のある方々が、仕事でも、地域でも、その個性を発揮して、いきいきと活躍できる、令和の時代を創る」と言いますが、たった3年前、その「障害者」の施設で(相模原市)、46人が殺傷された事件の時、こうして所信表明で「友人」とする人をはじめ、国をあげて怒り、悼み悲しむということはしませんでした。
 表向きは怒り悲しんだのでしょうが、たとえば殺された19人の名前の公表を「遺族」の名において差し控えた(確かにそうだった)のは、その人たちが生きて市民権を持たない社会だったからです。だと思う。
(次週につづく)

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