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2006年02月01週
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 2005年11月1日週報で報告した“母校”関西学院大学神学部で起こったセクシャルハラスメント事件は、大学の調査委員会のそのことを認定する報告書が出されたことを伝え聞いています。一方で、そのことを認定された元教員の見解を示す文書も目にすることになりました。元教員は、神学研究の世界では著名な研究者として知られています。西洋古典語に通じ、多くの翻訳や著作もあります。ですが、起こってしまった事件についてのこのたびの見解は、著名人とは思えない程度の内容です。たとえば、置かれることになった自分のことを「…仲間に裏切られた哲学者ボエティウスや、政治的勢力の変化から生じた悲劇を被ったダンテの不運な運命」になぞらえられています。このなぞらえられ方は、ボエティウスやダンテのことはあんまり知らなくてもどこか変です。自分の身に起こったことを自分の身で引き受けるのは、どうであれ人として生きて行く覚悟であるべきです。なのに、たまたま研究の対象になったボエティウスとダンテが、その研究者の不始末らしきものになぞらえられるのは、2人の古代人にとっていい迷惑のはずです。たとえば、“著名”でない普通の人がセクシャルハラスメントの当事者になったりした時、“人格を著しく傷つけた”ということが問われるのですから、もちろん事は深刻です。結果、どうであれ、身内などからの厳しく批判されることも有り得ます。“事は深刻”で“厳しく批判される”ことで普通の人でも失うものが少なくなかったりします。しかし普通の人は何しろ普通の人で、ボエティウスもダンテもほとんど知りませんから、そんな立派な人たちを使って自己の弁護を組み立てたりしません。それって無知ということではなく、余計な武器を持ち出して自分の弁護には走らないという普通の人の“見識”ではあるのです。著名な人が自分の身に起こったことに、ずっと昔の立派な著名人になぞらえて自己弁護してしまうのは、自分が著名人であることの覚悟というものを、ちっとも持ち合わせていなかったことをさらけ出しています。あるいは、自分の姿を顕わにしてしまったということかもしれません。確か、“4.2.3”で、中島みゆきは「慌てた時に 人は正体を顕す」と歌っていました。
 福音書のどこを見ても、イエスが大声を出したという記述には出会いません。さすがに、十字架上で絶命する時のことは「・・・3時、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた」と書かれています(マルコ福音書15章34節)。ほとんどの場合大声を出すこともなかったし、特に声を潜めるということもしていません。で、前記のセクシュアルハラスメント事件の調査けっかについては、ほんのかすかに聞こえてきています。というか、聞こえないくらい小声なのはなぜだろうか。たいしたことではなく、たいしたことにしないという意図が強く働いているように思えなくはありません。たとえば、そんな事件の起こってしまう学校のことで、いくつかそこそこ話題になっていることがあります。小学校を作ることが決まっていて、更に合併で、幼・保も併設してしまうのだそうです。という、教育そのものに広く・高い理想があってそうするのだと、そのことの経緯伝える文書も届いています。なのに、教えるとか、学ぶとかの一番の基本に関わることについては、それが無かったかのように小声で扱っても平気です。“教える”とか“学ぶ”っていう場合、そこそこ大切というか、これを外すとまずいのは、何よりも“自分を糺す”“自分が糺される”という単純な向かい合い方です。なのに、このことになると聞こえないくらい小声なのは、まずいのではないだろうか。 height=1
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