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小さな手大きな手

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2019年11月01週
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(前週よりのつづき)
「以上に概観した通り、原子炉の設置、運転に関しては、原子炉の危険性に鑑み、法令上、その設置に許可を必要とし、設置後も一定の基準の維持が求められていたことに加え、政府には原子力に関する安全確保のための専門機関が設けられ、各機関において原子炉の安全確保のための規制や指針等の策定、これらに基づく原子力事業者の監督、審査が行われるなど、その安全確保は国にとって重要事項として位置付けられていた。そして、原子力事業者には、法令上の義務または自主的な対策として、国の示す安全確保のための指針等に従い、日頃から新しい技術や知見に関する情報の収集及び分析を行うとともに、必要に応じてこれらを安全対策の基礎として取り入れることによって、原子炉による災害のリスクを常に最大限低減したレベルでの安全性確保が求められていたといえる」。
だから、事故・事件が起こったとしても「想定内」であり、予見可能性の有無で「被告人」が有罪であるということにはならないとなり「被告人らは、いずれも無罪」という判決が導き出されることになります。
判決要旨は、その「結論」で「本件事故の結果は誠に重大で取り返しのつかないものであることはいうまでもない。そして、自然現象を相手にする以上、正確な予知、予測などできないことも明らかである」、だからそもそも裁きようがない無罪とします。「何よりも安全確保を最優先し、事故発生可能性がゼロないし限りなくゼロに近くなるように、必要な結果回避措置を直ちに講じるということも、社会の選択肢として考えられないわけではない」「しかしながら、これまで検討してきたように、少なくとも本件地震発生前までの時点においては、賛否はあり得たにせよ、当時社会通念の反映であるはずの法令上の規制やそれを受けた国の指針、審査基準等の在り方は、上記のような絶対的安全性の確保までを前提としてはいなかったとみざるを得ない」、で「被告人らは、いずれも無罪」となります。判決要旨は「以上の次第で、被告人らにおいて、本件公訴事実に係る業務上過失致死傷罪の成立に必要な予見可能性があったものと、合理的な疑いを超えて認定することはできず、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、被告人らに対し刑事訴訟法336条によりいずれも無罪の言い渡しをする」。
刑事公訴が提起されたことが即ち、犯罪の事実ではなく、それが提起され、今回のように検察審査会の議を経て起訴された場合、そこで争われるのは、真実・事実であり、そのことを客観的・科学的な可能なすべての手法を駆使して明らかにするのが、法廷及びそれを指揮する裁判官のあるべき態度です。
東電福島の重大事故の場合、そのことによって起こった出来事が人々の生活に及ぼしている影響を社会通念上考慮するのは当然です。もちろん、そのことで事実をゆがめることがあってはならないのももちろんです。そうではなくて、事故・事件の真実・事実を客観的・科学的に余すところなく明らかにし、それを示すことで初めて事故の後を生きる人々に届く言葉となるはずです。
判決要旨が結論で述べるように、東電福島の事故は「重大で取り返しがつかない」のが真実・事実です。そして、その東電福島のような原子力発電所の稼働は「正確な予知、予測などできない」「自然を相手」にもしています。
もし、判決要旨が、結論の冒頭でそのように述べるのであれば、前提とすべきは、社会通念の反映であるはずの法令上の規制を優先するのではなく、真実・事実、客観的・科学的であることに一切の妥協を退ける位置に立つことこそが、裁判の使命を貫くことになるはずです。東電福島の刑事告訴裁判の判決が、社会通念と言ってしまう時、真実・事実、客観的・科学的であることをかなぐり捨てた、裁判のあるべき使命を自ら冒涜していると言わざるを得ません。
悲しむべきことです。

武藤 類子 様

 19日朝、東京地裁前でお会いした時、武藤さんが左胸に付けておられた小さな「白バラ」で、ヒトラー政権に抵抗したドイツ人学生グループ『白バラ』のことを思い出していました。2、3年前にいくつか目を通していたナチスドイツに関する本のうちの1冊が 「『白バラ』尋問調書―『白バラの祈り』資料集」でした。ハンス・ショルと、ゾフィー・ショルの「兄・妹」たちが、書き、印刷し、配布していた文章のタイトルが「『白バラ』のビラ」で発覚し、ショル兄妹たちは、ナチスによって捕まって5日後に斬首されました。武藤さんの「白バラ」から、それを思い出していました。早速、一緒だった岡 理恵さんに折り紙で「白バラ」を折ってもらい、武藤さんにならって胸につけることにしました。西宮に戻ってから、「『白バラ』尋問調書」を読み直しています。
「あらゆる言論の自由を容赦なく弾圧する国家でわれわれは育ってきた。ヒトラー・ユーゲント、突撃隊、親衛隊がわれわれの人生で最も実り多き学業の時期にわれわれを画一化し、扇動し、麻痺させようとした。『世界観学習』と称する軽蔑すべき方法により、自立した思考や自尊心の芽生えを無意味な空言のなかで圧殺しようとした。この上なく悪魔的で愚昧な総統の取り巻きが、各地に指導者養成所で、未来の党のボスどもを、神も恥も良心も知らぬ搾取者、殺人者、目を閉ざした愚鈍な総統の追従者に育てあげている。」
(最後のビラより 「『白バラ』尋問調書」)

 公判終了後、武藤さんたちが出て来られるのを、地裁出入口でお待ちしましたが、「涙を拭われる」のをお見かけした後、記者会見に戻られるのを見送って、地裁を去ることになりました。
 お出でになると聞いていたノーマ・フィールドさんにお会い出来なかったのが残念でした。「小林多喜二-21世紀にどう読むか」にサインしてもらえなかったのも残念です。
 「多喜二さん。私はこころからお礼をいいたい。あなたが全身の力をふりしぼって、文学と社会変革をともに求めたことに対して、です。人はだれでも、あなたのように本気で生きてみたいと、一度は思うのではないでしょうか。」
「小林多喜二」
 東京地裁の判決が、突き付けていることの一つが、この国の状況・現実であり、そして、いかに立ち向かうのかであるとすれば「白バラ」も、「小林多喜二」も何かの示唆であるように思えます。
 今まで、気が付かなかったのですが、地裁の北側の街路樹は「トチノキ(栃の木)」でした。警備員によると「だいぶ前から落ちていますよ」とのことでした。いっぱい落ちていたのですが、拾ったのは8個です。東電の3人が裁判所から出てくるあたりを警備していた警官に「ひどい判決だね」と声を掛けたら、一応うなずいていました。
2019年9月20日
菅澤 邦明

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