大地震から25年、
『「兵庫県南部大地震 記念の日」追悼礼拝』にあたっての
呼びかけ
日時 2020年1月17日(金)午後6時から
場所 日本基督教団 神戸教会
説教 『私が絶望しても 私を見捨てない者が在る』
五百井 正浩
(真宗大谷派玉龍寺住職、真宗大谷派ボランティア委員会委員長、真宗大谷派“東本願寺”兵庫県南部地震現地救援連絡拠点「ネットワーク朋」代表、一般社団法人神戸国際支援機構理事、他)
主催 日本基督教団 兵庫教区
1995年1月17日早朝、阪神間を襲った極地的な大地震(M7.3、震度7)は、極限の被害をこの地にもたらすことになりました。一瞬のうちに命を失った人たち、助けを待っても得られなかった人たち、迫ってくる火勢から逃げる術もなかった人たち、ほんの数センチが生死を分かつことになった親子、失ったものの余りの大きさに途方に暮れるよりない日々が、生き残った者たちに始まりました。
この極地的な大地震の、極限の被害を前にして、私どもは大きくは2つのことを決意し、具体化しようとしてきました。
1つは、同じ阪神間で生活しながら、出会うことが少なく中でも被害の大きかった在日の人たちとのへだたりに驚き、人間としての交流を願い、被災者生活支援・長田センターを設立することになりました。「おはよう」「こんにちわ」「おやすみ」など、日常の生活の中で在日の人たちと出会い、生活経験をつなぎ合わせることが何よりの願いで始まった大地震の後の活動です。
そしてもう一つ、大地震から5年目、長くそして幅広い検討の結果生まれたのが「被災教区の震災5年目の宣教にあたっての告白」です。
告白のはじまりは、大地震の「被災に関わる経験」を「試練と恵みの神の働き」として受けとめとなっています。そして自然災害に「神の臨在」を「認識」する時、受け身にではなくそこで問われていることに応答する営みとして、始まる一つが「被災者生活支援・長田センター」の設立であり活動でした。その設立と活動は、神の前で約束した告白です。そして告白を内実あらしめるべく、国の内外を問わず可能な限りすみやかに災害の被災地に目を向けそこで営まれる被災者の現在を見極め時には足を運び行動することにつとめてきました。
そして「現実の苦難の中にある生命の営みと、その出会いの中にこそ神は居られることを信じる」を、自らの告白として、活動してきたのが「被災教区」兵庫教区でした。そうだったはずです。この自らの告白に私たちは今も問われ続けています。
告白は、神の前で問われ続けているのはもちろんですが、生き延びることのできなかった人たち、亡くなった人たちを追悼するべく実現してきた追悼礼拝においても、その内実を繰り返し問われてきました。
どんな大きな、悲惨な体験であっても人間の営みの歴史を、その事実から遠く生きてしまうこともあり得ます。風化です。しかし、骨肉を削って共生して生きた体験は、どんな意味でも風化のしようがありません。そして、生きものすべて、その生きものの一つである人間の命も、すべて「神聖」です。『…すべての生命が聖なるものに見えたとき、人は誰でも翼を持つのだ、と。』(*注)とすれば、どんなに遠く時空を超えたとしても、生き残った人間には、心の底から命を奪われた人たちを悲しみ追悼し続けるのです。
2020年1月17日(金)、兵庫教区の追悼礼拝にあたり、五百井 正浩さんに(真宗大谷派・玉龍寺住職)、説教をお願いすることになりました。五百井 正浩さんと真宗大谷派は、兵庫県南部大地震にあたり、宗派内にも多くの被災者が生まれることになりましたが、宗派の枠にとらわれず、広く支援してきました。その中心の働きを担われたのが、五百井 正浩さんであり玉龍寺です。その働きは、一言でいって、宗派、個人に閉じこもらないでその地域社会の困難を一緒に歩んで引き受けるというものでした。それが、須磨区下中島公園に避難している人たちの支援であり、同時に五百井 正浩さんの玉龍寺は、その懐の深さにおいて、被災者、被災地を訪れる人たちの居場所としての役割を果たし、それは、その後起こり続ける自然災害においても、取り組みとなって今も続いています。
五百井 正浩さんには、兵庫教区被災者支援・長田センターとの働きでも協力関係にあり、2007年にはセミナーの講師も引き受けていただきました。それは、「災害と向かい合う宗教」としてまとめられています。
*注 書籍「ダンシング・ザ・ドリーム」(著:マイケル・ジャクソン、訳:湯川れいこ/ソニー出版)「WINGS without ME」より
被災教区の震災5年目の宣教にあたっての告白
わたしたちは、地震と被災に関わる経験を通して示された、試練と恵みの神の働きを信じる。
わたしたちは、被災が一様でなく極めて多様で、それぞれに固有の生活体験であることを知る。しかし、その個々の生活に働かれる神の臨在を認識した。そして固定化した福音理解、感性と想像力に欠けた信仰生活が厳しく問われたと信じる。
わたしたちは、非常時の中で教会の地域社会への関わりと参与、その日常性のあり方を問われた。被災の現実から教えられたのは、隣人への関心、関係の豊かさを生きることであると信じる。
わたしたちは、大地震という持続の出来事を経験した。おびただしい死を前に圧倒されながら、悲しむよりほかない現実と向かい合うことの大切さを知った。同時に、イエス・キリストにおいて歴史に啓示された神は、被災のただ中にも臨在されていることを信じる。
わたしたちは、現実の苦難の中にある生命の営みと、その出会いの中にこそ神は居られることを信じる。その信仰によって未知のものを踏み分けつつ言葉を紡ぎだしていくことが福音宣教と信じる。
わたしたちが被災の現実の中で、『地域の再生なくして、教会の復興はありえない』として歩んできたことが、神の前に立つわたしたちの信仰の応答であると告白する。
アーメン
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