日本キリスト教団西宮公同教会・西宮公同幼稚園
教会について
礼拝・諸集会のご案内
小さな手・大きな手
公同通信
教会学校について
公同幼稚園について
どろんこと太陽
関西神学塾:スケジュール
関西神学塾:講師紹介
楽しい学習
賃貸住宅事業部とは
テナントについて
活動内容
アートガレーヂについて
催し物のご案内
リンク
アクセスマップ
お問い合せ
width=1
top>小さな手大きな手
width=639
小さな手大きな手

height=1
2019年12月04週
height=1
中村 哲さんが亡くなられました。中村 哲さんに直接お会いするのは、2004年1月19日に「大地震から9年のセミナー」で、お迎えした時です。このセミナーは、1995年の兵庫県南部大地震の後、「生命を考える」をテーマに開催されてきた6回目のセミナーです。その当時、ペシャワール会経由で、講演をお願いしてきましたが、超多忙だったにもかかわらず、快く引き受けてくださり、神戸教会での講演会が実現しました。講演と質疑は、翌年の5月に「絶望から希望へ -生命に寄り添って-」として主催によってまとめられた冊子となって発行されましたが、現在はほとんど残っていません。その時の講演では、「絶望から希望へ」ということで、話していただきました。講演でもそうですが質疑応答で、中村 哲さんの2004年のアフガニスタンは「私が20年間いる中で最悪の状態になっています。それは、どういうことかというか、治安が乱れる。少なくとも20年前、私が行った時には、確かに内戦は激しかったですが、敵と味方がはっきりしていた。危ないところには近づかなければ、危険を避けることが出来た。政治的なことに首を突っ込まなければ、危険を避けることが出来た。ところが、現在は、どこで何か起きるか分からない」「ソ連軍は、それなりに見境をつけて攻撃しましたが、米軍は見境なく攻撃するということがあります。おそらくは、情報能力も落ちているし、それから西部劇でインディアンを撃つように簡単にアフガン人や、我々を攻撃する。米軍が行くところ、治安がますます悪化する。悪化するから米軍が出動する。米軍が出動すると悪化するというイタチごっこに陥っている現実があります。我々は、皆に雨が降っても槍が降っても、この仕事は続けるのだと言っていたら、実際に上から砲弾が降ってきた。ほかでもない、米軍が我々を襲撃したわけです」「今までで、一番悪い状態だと、私は思います」。「一番悪い状態」のアフガニスタンに、中村 哲さんたちは留まり続けます。「雨が降っても、槍が降っても、この仕事を続けるのだと言っていたら」「砲弾が(米軍の)降ってきた」そのアフガニスタンに留まって仕事を続けます。
 「世の中が、世界中が、武力、力さえあれば、政治権力があれば、物が豊かであれば、経済復興ができれば、何か希望が見えるような錯覚に陥っていますけれども、少なくともこの仕事に携わることによって、我々自身はそういう迷信から自由であることができた」「人間にとって本当に大切なものは何か、失って良いものは何なのか、最低失っていけないものは何なのか」
そして、中村 哲さんたちが「人間にとって、本当に大切なもの」としたのが、「やはり、そこにいる人と人々と共に笑ったり、泣いたり、喜んだり、苦しんだりしながら何かをしていく」ことでした。ですから、「雨が降っても、槍が降っても」中村 哲さんたちは、アフガニスタンでの仕事を続けました。その中村 哲さんたちと行動を共にしていた一人の青年の生命が奪い去られることになります。2009年殺害された伊藤和也さんです。恐らく、この時の中村 哲さんは、伊藤和也さんの死を断腸の思いで受け止めるだけでなく、自分もまた「雨が降っても、槍が降っても」アフガニスタンでの仕事を続ける決意を新たにされたように思えます。どこかで、今回起こってしまった自分の死を予測し、覚悟しながらです。
以下に引用するのは「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」(中村 哲、聞き手:澤地久枝/岩波書店)で、澤地久枝さんが紹介する2001年10月13日の衆議院のテロ対策特別措置翻案審議に参考人の一人として出席した時の発言です。

2001年10月13日、衆議院のテロ対策特別措置法案審議に、7人の参考人の1人として出席した中村 哲医師の発言は、特に記録にのこしたい。
9・11事件のあと、米英軍によるアフガニスタン爆撃がはじまった直後である。この時点で、18年間の現地体験を裏づけとして語られた訴えは、当時の世界のなかでも、きわだつものであった。集団テロの「衝撃」に、浮足立ち、テロ絶滅の戦争かテロ容認か、二者択一を迫る論議が、強権発動のようにまかり通った。心ある人も、沈黙を守らざるを得ないような狂気の風が吹いた。中村参考人の発言要旨。
-私はタリバンの回し者ではなく、イスラム教徒でもない。ペシャワール会は1983年にでき、18年間現地で医療活動をつづけてきた。ペシャワールを拠点に1病院と10カ所の診療所があり、年間20万名前後の診療を行っている。現地職員220名、日本人ワーカー7名、70床のPMS(ペシャワール会医療サービス)病院を基地に、パキスタン北部山岳地帯に2つ、アフガン国内に8つの診療所を運営。国境を越えた活動を行っている。
私たちが目指すのは、山村部無医地区の診療モデルの確立、ハンセン病根絶を柱に、貧民層を対象の診療。
今回の干ばつ対策の一環として、今春から無医地区となった首都カブール(カーブル)に5カ所の診療所を継続している。
アフガニスタンは1979年12月の旧ソ連軍侵攻以後、22年間、内戦の要因を引きずってきた。内戦による戦闘員の死者75万名。民間人を入れると推定200万名で、多くは女、子ども、お年寄り、と戦闘に関係ない人々である。
600万名の難民が出て、くわえて今度の大干ばつ、さらに報復爆撃という中で、痛めに痛めつけられて現在に至っている。
アフガンを襲った世紀の大干ばつは、危機的な状況で、私たちの活動もこれで終るかも知れない。アフガニスタンの半分は沙漠化し、壊滅するかもしれないと、昨年から必死の思いで取り組んできた。
広域の大干ばつについて、WHOや国連機関は昨年春から警告しつづけてきたが、国際的に大きな関心を引かなかった。アフガニスタンが一番ひどく、被災者1200万人、400万人が飢餓線上にあり、100万人が餓死するであろうと言われてきた。
実際に目の当たりにすると、食糧だけでなく飲料水が欠乏し、廃村が広がってゆく事態で、下痢や簡単な病気でおもに子どもたちがつぎつぎと命を落としていった。
私たちは組織を挙げて対策に取り組み、「病気はあとで治せる、まず生きておれ」と、水源確保事業に取り組んでいる。今年1月、国連制裁があり、外国の救援団体は次々に撤退し、アフガニスタンの孤立化は深まった。
水源の目標数を今年以内に1000カ所、カブール診療所を年内に10カ所にする準備の最中に、9月11日の同時多発テロになり、私たちの事業は一時的にストップした。いま、爆撃下に勇敢なスタッフたちの協力により、事業を継続している。
私たちがおそれているのは、飢餓である。現地は寒気に入り、市民は越冬段階をむかえる。いま支援しなければ、この冬、1割の市民が飢餓するであろうと思われる。
難民援助に関し、こういう現実を踏まえて議論が進んでいるのか、一日本国民として危惧を抱く。テロという暴力手段防止には、力で抑えこむことが自明の理のように論議されているが、現地にあって、日本に対する信頼は絶大なものがあった。それが、軍事行為、報復への参加によってだめになる可能性がある。
自衛隊派遣が取り沙汰されているようだが、当地の事情を考えると有害無益である。
「私たちが必死で――笑っている方もおられますけれども、私たちが必死でとどめておる数十万の人々、これを本当に守ってくれるのは誰か。私たちが十数年かけて営々と築いてきた日本に対する信頼感が、現実を基盤にしないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去るということはあり得るわけでございます」。「アフガニスタンに関する限りは、十分な情報が伝わっておらないという土俵の設定がそもそも観念的な論議の、密室の中で進行しておると言うのは失礼ですけれども、偽らざる感想でございます」(議事録では笑った議員を特定できない。しかし語られている重い内容を理解できず、理解する気もなく笑った国会議員がいたのだ)。
自民党の亀井善之委員が「自衛隊の派遣が有害無益でなんの役にも立たないという発言」の取り消しを求めた。
参考人の意見が賛否の2つに分れたように、委員会は、テロに敵対する日本の立場を明確にし強化しようとする方向と、憲法違反の自衛隊派遣に反対する立場に二分された。論議は平行線をたどったが、10月、テロ対策特別措置法が成立、自衛隊イージス艦のインド洋派遣となる。11月、タリバン政権崩壊。
命がけで医療と水源確保をおこなってきた中村医師の18年間へ、「日本」が出した結論を心に留めたい。
height=1
[バックナンバーを表示する]
height=1


?????width=80

Copyright (C) 2005 koudoukyoukai All Rights Reserved.