“真理”の名が泣くというものではないですか
“濱田辰雄、阿部洋治両名による「正教師登録を求める要望書」”及び“議案/濱田辰雄教師と阿部洋治教師の正教師登録を求める件”及び“教憲9条検討作業委員会よりの提言”について
日本基督教団の教師制度及び教師検定をめぐって、第34総会期教団常議員会に濱田辰雄、河部洋治両名による「正教師登録を求める要望書」と「議案/濱田辰雄教師と阿部洋治教師の正教師登録を求める件」が提出されています。
要望書も議案も、日本基督教団のいわゆる“教憲・教規”からすれば認めにくいのは明らかです。しかし、濱田、阿部両名の受験した福音主義教会連合による正教師試験や福音主義教会連合が勝手にやってしまった按手礼が全くインチキという訳ではありません。そこに“神の召し”を見たのであれば、立派に教師試験であり、按手ではあったのです。だからと言って、教団の試験であり按手であったかというと、そうでないのはもちろんです。もし、濱田、阿部両名による要望書、濱田、阿部についての議案を認めてしまうとすれば、教団の教憲・教規なんて、なくってもいいことになります。「本教団は、イエス・キリストを首と仰ぐ公同教会であって、本教団の定める信仰告白を奉じ、教憲および教規の定めるところにしたがって・・・その存立の使命を達成する」(教憲・第1章)からは、出されている要望書や議案にはつながりにくいのです。
ただし、上記のことと、この制度が問題をはらみ、限界を持っている事実は別です。たとえそれが教会の制度であっても、制度には限界があり完全ではあり得ないこと、そもそもそれは人がつくって人の手に委ねられて今日あることに人は謙虚であるべきなのです。なのに、「・・・合同教会のゆたかさの中で教団信仰告白を基準として教師検定を行う」(第32総会期第4回常議員会)の“信仰告白を基準として”を、踏み絵のように扱ったりするのは謙虚な振る舞いとは言えません。
現在、変更が検討されている教憲9条は「・・・教師は、神に召され」「正規の手続きを経て献身した者」「・・・教師はこれをわけて、正教師および補教師とする」と教師を定義しています。この制度と定義は、このあたりで既に矛盾したことを言っています。たとえば、“神に召され正規の手続きを経て献身した者”をすぐ後で“・・・これをわけて”などということになってはならないからです。もとはと言えば、“神に召され正規の手続きを経て”と言っている、そのことがそもそもあやうかったりするのです。言うところの“神に召され”は、神の意志と人の意志が出会うところぐらいの意味なのでしょうが、そのまま“正規の手続き”とはなりにくいのです。神の意志は、そもそもが神の意志ですから、いかなる意味でも人の制度の保証人に引きずり下ろしてはいけないのです。人の意志については、これほど不確かなものはない訳で、その程度の人の意志が、定義はどうであれ、神の意志の正規の手続きに直結するはずはないのです。
要望書も議案も、“教憲および教規の定め”“神に召された正規の手続き”を強調する一方で、それを踏みにじることも平気でしています。そうではなくって、“・・・定め”とか“・・・正規の手続き”などというものが、そうであればあるほど“イエス・キリスト”“神”のもとで生きることの謙虚さが求められていることに気付くべきなのです。
教団の教師制度及び教師検定のことでは、教憲第9条検討作業委員会より9条変更が提言されています。この制度が成立した時の恣意的、政治的判断が補教師(準教師、教師補、即ちいまだ教師にあらざる教師)と、正教師の2重構造を生むことになりました。しかし、教師制度の2重構造を貫徹するほどの意味や展望があった訳ではありません。たとえば、補教師を主任担任教師として教会の現場に送り込むなどのことを平気でやってきました。それが多くの場合、地方の小教会であったりしました。教師の2重構造を作ってしまったものの、その責任を取ることをしなかったのは、2重構造の意味がそもそもあいまいだったからです。(この項つづく)
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