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小さな手大きな手

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2020年02月01週
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 どんなに大きく話題になっても、なかったかのように次の新しい大・小の話題に関心が移って行きます。
 昨年末、大きく話題になったのがローマ教皇フランシスコの来日、アフガニスタンで医療・難民の幅広い生活再建・支援の活動をしていた中村哲さんが殺害された事件でした。いずれも、大きな出来事・事件として話題になりましたが、ほんの1,2か月も経たないうちに、次々に起こる話題の一つになり、過去に起こった出来事・事件の一つとして、記憶の片すみに残る程度のあつかいになっています。話題である限り、別の新たな「話題」となる出来事・事件の背後に押しやられてしまうのはあり得ることなのだと思います。
 そうは言うものの、ローマ教皇フランシスコが自らの意思で、自らの言葉で世界の片すみで起こっていることに耳をかたむけ、目をこらし、時にはそこに出かけ、手を差し伸べ続けること、同じように中村哲さんが、自らの意思と自らの行動を今現在、生命をおびやかされ、命の保障が何一つないアフガニスタンに止まり続けたのは、「話題」であることを超えて、どんな人のどんな生き方もえぐらずにはおかない、何かが同じ時代を生きる人間一人一人に迫られているように思えます。
 教皇フランシスコは、彼の生きる宗教を語る時、必ず生きた人間の現実から始めます。あるいは、生きた人間の現実そのものを語ります。教皇の宗教の「待降節」について語る言葉も、それはまさしく「新しい世界への願い」そのものなのですが、生きた人間の現実から語り始めます。「飢餓や不正や戦争によって苦しむ大勢の人の願い」「貧しい人、弱い人、見捨てられた人の願い」、願いはそうであって初めて新しい待降節の新しい願いであり得ること、その事の為の一歩、更に一歩を踏み出すのが、教皇フランシスコであるようです。2018年1月4日、講話で、その一週間前にチリ・ペルーを訪問したことに触れ、サンティアゴで女性刑務所を訪問したことに言及しています。「わたしは、彼女たちにも、施設側にも、毎日続く刑に意味を与える地平として、社会復帰への準備を真剣に進めるよう熱く伝えました。そのような社会復帰への希望がなければ、刑務所は永遠の拷問です。そうではなく、刑務所の中から社会に働きかけるのは復帰に向けた作業に取り組んでいれば――終身刑の人でも復帰は可能です――、対話へと開かれます。いいですか、刑務所は必ず、この社会復帰という側面がなければなりません。必ずです」と語ります。
 刑、中でも「死刑」について、教皇フランシスコとカトリック教会は、反対の意思を明らかにしています。今日、カトリック教会は「教理」としてもそれを明らかにしています。「死刑はそれ自体が福音に反します。というのは、その決定は人の生命を消し去るために任意に下されますが、人命は創造主の目には常に神聖で、最終的には神だけが真の審判者であり保証者だからです」「ですから、ここでもう一度繰り返す必要があるのです。どんな重大な犯罪が行われたとしても、死刑は容認できません。それは人間の不可侵性と尊厳への攻撃にほかならないからです」。カトリック教会の教理が死刑廃止へと書きかえられることになったのは、教皇フランシスコの強い意志の結果だと言われます。その教理は、人間の営みが人間にすべての生命の営みをおびやかす事実にも強い関心を示さずにはおきません。「教皇」は「気候変動や環境汚染、水に象徴される自然資源の(特定の人間による)独占、格差を助長するグローバリズム経済のありように対し、強い疑義を表明している」(1月18日、読売新聞)。人間の生命がそうであったように、自然もまた人間的な営みによって汚されてはならないとするのが、教皇フランシスコの自然理解なのです。教皇フランシスコが「話題」になる時、「話題」以前に、ゆらぐことのない生命の尊厳について自らそのことにおいて生きる人間フランシスコであることを、理解する必要があります。前掲の待降節の「祈り」でも、「待降節は希望の季節です」とし、「ここではシリアの子どもたち、愛するシリアの子ら、もう8年も続く戦争に苦しめられているシリアの子らのために、平和と言う希望をわたしたちの希望としたいと思います」と、待降節の祈りの言葉は、そのことを受けとめ、そのことに対する祈りの言葉になります。それは、たまたまシリアの子どもたちではなく、つき動かして止まない、人間としての人間への強い関心があって初めて起こる言葉としての祈りであるように思えます。特別の存在として教皇フランシスコではなく、人間として人間への強い関心があれば、誰においても起こり得ることのように思えます。「話題」となっている教皇フランシスコは「話題」であることをぶち壊し、話題に根源的な新しい意味を与えるのです。(以上、資料として「教皇フランシスコ講和集6」カトリック中央協議会、「橋をつくるために/現代世界の諸問題をめぐる対話」教皇フランシスコ/ドミニック・ヴォルトン、新教出版、「死刑制度廃止に取り組む教会/死刑制度廃止カトリック教会の決意」イエズス会社会司牧センター、日本カトリック正義と平和委員会)。
 日本の「死刑執行」のたびに「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を発表しているのが、真宗大谷派です。その声明には、真宗大谷派の考え方、生き方としての宗教理解を読みとることができます。
 「しかし、犯罪を起こした者のいのちを奪う死刑執行は、法に基づくものであれ、国による殺人であることに変わりなく、私たち人間が取り返しのつかない罪をさらに重ねることにほかなりません」「罪を犯した者のいのちを奪う死刑の執行は、根源的に罪をかかえた人間の闇を自己に問うことなく、他者を排除することで解決とみなす行為にほかなりません。死刑制度は、罪を犯した人がその罪を償う機会そのものをも奪います。また、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助けていく責任を放棄し、共に生きる世界をそこなうものであります」(真宗大谷派「同朋新聞」2019年10月1日)。

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