(前週よりのつづき)
しかし、2019年12月4日、中村哲さんは「生きのびる」ことはできませんでした。「『武器に屈してはいけない。信頼が第一だ』と訴え銃弾に倒れた」中村哲さんがいたアフガニスタンで、確かに中村哲さんは「命を懸け」ていました。「このような事件が起こってしまったのは残念ですが、あり得ることだとずっと思っておりました。もしかしたらこれが最後かもしれないと思いながら毎回父を見送ったものです。自分に言い聞かせていたことですが、現実になるとやはり悲しいです」(「父を支えて下さった全ての方に感謝しています」寄稿、中村哲医師長女、中村秋子、2019年12月25日、ペシャワール会報、号外)。澤地久枝が伝える今の今までアフガニスタンで活動をし続けることを「やはり、運命、さだめのようなものを感じます」との中村哲さんの言葉、それを澤地久枝が「多くの人との縁が、かねてから約束されていたかのように、中村医師を人生の各章へいざない、支え生きのびてきた」と言い換えましたが、「生きのびる」ことはできませんでした。その殺害、死は「多くの人との縁が、かねてから約束されていたかのように」やってきたように思えます。たとえば、中村哲さんが生きる「多くの人との縁」は、その始まりから「かねてから約束されていた」と言わざるを得ないのは、そもそもの始まりにおいて、「約束されていた」と言わざるを得ないからであり、始まってしまった「縁」も、偶然や成り行きだったり、いわゆる強い決意であったりしません。医師として人として生きる時の、人との向い合い方が、縁と言うよりは自ら引き寄せると言うよりないことを、自ら語っています。「…今でもそうですけれども、その地域の人々といかに折り合っていくか、その人々をいかに理解していくか。その地域の人々と言わず、我々が診療の対象とする人々が何を考えて、何を喜びとして、何を苦痛とするのかを知らないことには、診療行為というのは、日本でももちろんそうですが、成り立たないわけですね。単に言葉が喋れるというだけではいけない。因みに、現地で必要な言語は、ペルシャ語、パシュトゥ語、ウルドゥ語、英語と四つありますが、ただ単にこういう言葉をたくさん知っているから意思が通じるというものではない。この地域の人をいかに理解するかということです」(前掲「絶望から希望へ/生命に寄り添って」)。
「我々が診療の対象とする人々が何を考えて、何を喜びとして、何を苦痛とするか」にまで深く思いを寄せる時、中村哲さんたちの働きが、人々の生活の再建にも目と心を向けることになったのは当然の成り行きです。更に、数年の医療活動のはずがどんどん長くなる「止まることを知らないほど長くなってしまった」としてもあり得ることです。それほどまで心を寄せることになったアフガニスタンの人たちを置き去りにできないとすれば、それは「運命」であるとしか言いようがありません。
しかし、そのアフガニスタンはアメリカによるそして日本もそれに加担するアフガニスタン戦争からは、中村哲さんやペシャワール会にとっても決定的に危険なものになってしまいます。内戦の時も、タリバーンが政権を取った後も、「JAPAN/PMS(ペシャワール会メディカルサービス)」は攻撃の対象にはなりませんでした。しかし、アメリカのアフガニスタン戦争の一翼を日本が担うことになった時、中村哲さんたちの築いてきた「信頼関係」が破棄されることになってしまったとしても、あり得ることです。そこは、止まるのには危険すぎる場所になってしまったのです。しかし、中村哲さんたちはそこを立ち去って放棄しませんでした。理解しあうことで築き上げてきた働きであったとすれば、放棄すること裏切ることはできなかったからです。ですから、言ってみればいつ命を奪われることになっても、あり得るアフガニスタンに中村哲さんは「残り」続けます。「もしかしたら、これが最後かもしれないと思いながら父を見送った」中村秋子さんの寄稿文に込めた切実な思いは事実なのです。人が人として「信頼」という言葉を口にする時、中村哲さんたちにとってどんなに危険であっても、そこに身を置き続けること、裏切らないことであり、そこで起こっていることを、よそ事のように「悲惨」などと評論してしまったりしないことでした。
少なからず唐突ですが、沖縄島で生きる人たちが、どんな悲惨な戦争を突きつけられ生きてきたとしても、その島での生活を放棄できないし、しません。今、その沖縄島で生きる人たちの意思が繰り返し繰り返し踏みにじられるとしても、沖縄島の人たちは島で生きる生活を放棄しません。そこが、どこにもないそしてかけがえのない自分たちが生きて築いてきた世界だからです。そこでの生活が現に今も踏みにじられているとしても、負ける訳には行かないのです。
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