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2006年02月03週
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「“真理”の名が泣くというものではないか」の“つづき”を中断し「・・・幼稚園の子どもたちや保護者、・・・」を書くことにします。“つづき”の方は、別紙で配布させていただきます。

 幼稚園の子どもたちや保護者、およそ5000人が集まる“運動会”を企画することになりました。5000人ではなくて、3000人になって実現したのが、2006年2月4日の“兵庫教育102条園フェニックスフェスティバル”でした。たくさんの子どもたちや保護者の集まる運動会ですから、単純で解りやすい内容で、しかも少なからず盛り上がっても欲しいということで、中心になるプログラムは“つなひき”になりました。プログラムのもう一つの軸は、リピート山中さんの歌で、新しく“兵庫子どものうた”を作詞・作曲してもらうことになりました。102条園の幼稚園の先生たちのダンスは実行委員が自前の振り付けをする、そのダンスの時の先生たちが着用するTシャツはフラッグアートデザイナーの福井恵子さんのデザイン、同じデザインで記念の絵はがきを作るなどのことが決まって行きました。参加を呼びかける文章も「“子どもという希望”を今喜び合うために集まって下さい。“子どもという希望”をどんな時も忘れないために集まって下さい。“子どもという希望”を未来に語り継ぐ為に集まって下さい。“子どもという希望”を守り育てるために集まって下さい。“子どもという希望”を共に集まって下さい。」などに決まり、2005年末には申し込みの受付、年が明けてからすぐ、タイムスケジュールの案を作成し実行委員会に提出しました。で、土壇場になって、いろいろと言われ始めたことの一つが、“どうしても警備員を雇いたい”でした。幼稚園単位でしかもほとんどが保護者同伴の参加になること、“子どもという希望”に挑戦したい願いでこんな集まりを呼びかけているのに、“警戒して警備し”閉ざすのは、この企画の精神になじまないということで、警備員を雇うことには強く反対しました。“外部からの危険に備える”という主張に対しても“・・・そうして閉ざしたとしても、内部が全く安全であるという保障はない”という、きわどい反対意見を述べたりもしました。結局は、別に打ち合わせの会議が開かれることになって(その日程の案内からは外され)、納得も了解もしないまま警備員を雇うなどが決められて行きました。
 2006年2月17日の長浜の事件については、事実関係の断片が伝えられています。悲し過ぎるできごとに、悲しんで夜を迎え、悲しいできごとのことで夜中に目が覚め、翌日のにぎやかな餅つきの間も、この悲しいできごとのことを考え続けていました。“外部”からの危険に備えるために取られることになった送迎の途中で、安全であるはずの“内部”の人によって、その悲しい事件は起こってしまいました。どうしてこんな悲しい事件が起こってしまったのか。“外部”であれ“内部”であれ、人という生きもののあぶなさ(危険)を、薄っぺらに理解してしまった結果が、この悲しい事件と無関係ではないと思っています。たとえば、どうして“内部”の人はあぶないのか。たとえば自然はどんなに悲しい今日であっても、必ず巡ってくる明日というものがあって、底なしの闇になるということにはあり得ません。ところが人は、ささいなことがきっかけであっても、深い底なしの闇に自分を追い込み、自分を暴走させてしまえる生きものです。そんな生きものだと思っています。そんな生きものの一人をしていると思っています。だから、全てが全く底なしの闇という訳でないないのはもちろんです。「・・・人間に彼の偉大さを見せないで彼のいかに獣に等しいかをあまりに見せすぎるのは危険である。人間に彼の卑小を見せないで、彼の偉大さをあまりに見せすぎるのもまた危険である。どちらをも知らさずにおくのはさらに危険である。どちらをも示してやるのは大そう有益である。人間は自分が獣に等しいと信じてはならない、また天使に等しいと信じてもならない、どちらをも知らずにいてはならない、どちらをも知らねばならない」と書いているのはパスカルです(「パンセ/(冥想録)418」、津田穣訳、新潮社)。“偉大”と“卑小”、“獣”と“天使”のいずれの生き物としても生きてしまえる人を、“外部”は危険で“内部”は安全だとする薄っぺらさで人の日常を覆い尽くしてしまうことが、どこかで人を追いつめ、どこかで人を暴走させているのではないかと思えてしかたがありません。

(別紙配布分)
2006年2月12日週報「小さな手・大きな手」のつづき 

 今、制度(教憲・教規)に反して正教師となった2人の取扱い、制度の不徹底さが生み出してきている齟齬を、制度をすっとばしたり少しばかり制度をいじくることで、問題の解消を計ろうとしています。しかし、問題はそこにあるのではなく、人の作った制度の恣意性と限界が、いずれの場合にも露呈しているにすぎません。兵庫教区第35回総会は「補教師の聖礼典執行に関する件」として、以下の議案(第9号議案)「日本基督教団の教師制度のかかえる矛盾を解決の方向に向かって討議を実りあらしめるために、補教師の聖礼典執行に関しては、諸教会の現実的実能に即し、また兵庫教区第25回総会以降の歴史的経過を踏まえつつ、その教会の決定を尊重する」を可決します。以下のことが提案理由として述べられています。「・・・教団における補教師・正教師の二種(二重)教職制に関しての問題提起がなされてから、教団『三委員会連絡会』がこの問題を受けつぐに至る間に、様々な討議、研究の過程で、補教師の聖礼典執行に関して、それを妨げる絶対的な聖書的、教会史的根拠を特に明確にするにはいたっていない」。恣意的、政治的判断で生まれた、教団の教師の2重構造は、それを守れと、頑固に言われるほどに絶対的であり得ないのは、先に述べた通りです。たとえば教憲9条が、「・・・神に召された正規の手続きを経て」などと言ったりする時、求められるのは、そんな制度のそんな一言一句を作ってしまった、人としての謙虚さです。提言では、「教師は・・・按手礼を領した者」に統一し、その上で教師を正教師と補教師に分類しています。しかし、この提言に無理があるのは、様々の歴史的経過で、按手礼を領しない補教師が存在してしまっていることです。元はと言えば、教団の教師の2重構造は、教団合同の時に便宜的にそのように制度化されました。ではあったのですが「・・・聖礼典はバプテスマおよび聖餐であって、按手礼を領した教師がこれをつかさどる」「教師はこれをわけて、正教師および補教師とする」「正教師は按手礼を領した者」と教憲(教規)で定め、教師の働きが正教師によって中心的に担われるべきこと、それに準ずる働きとして補教師というものもあることを宗教的真理として定義したのが教憲・教規です。という教憲・教規を、その後教団は守るに値する宗教的真理として掲げてもきました。そのようにして守られてきた“真理”を、あたかもほころびをつくろうように扱ってしまうのは拙いような気がします。今出されている“要望書”や“議案”、“提言”のように扱われたのでは、“真理”の名が泣くというものではないですか。教憲・教規が定めるものが“真理”であったのなら、その真理なるものと真正面から向かい合い、徹底して根底から問い直すことこそが求められています。そんなことの問い直しの過程で、兵庫教区第35回総会、第9号議案が提起されたとすれば、それこそおおいにあり得ることなのです。

2006年2月11日 菅澤邦明

付記:数年前、3委員会連絡会(教師検定委員会、教師委員会、信仰職制委員会及、それに問題の当事者が加わり教師及び教師養成などのことを協議する連絡会)の働きを解消するにあたって、浜田さんや阿部さんなど福音主義教会連合の実施した試験で按手を受けた人の処遇、信徒で教師の働きをしている人たち、及び補教師のままの人たちの処遇をどうするかが今後の課題ないしは懸案であろうことが話題になっていました。


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