(前週よりの続き)
元には戻らぬ世界
文芸時評
小野(おの)正嗣(まさつぐ)(小説家、2015年「九年前の祈り」で芥川龍之介賞受賞)
気づけば、これまで生きてきたのとはちがう世界の中にいるようだ。
堀田善衛の『方丈記私記』はこういう時に読む本かもしれない。1918年生まれの堀田は、20代後半で東京大空襲を経験する。その「生命の危険」、「物心両面の一大不自由」のさなか、掘田が読み耽ったのが、鴨長明の方丈記である。東京の焼け野原に、長明が生きた乱世が、大火や地震や飢饉や戦乱で荒廃した京の都が重ね合わさえる。
いまウイルスの脅威にさらされた僕たちを浸す違和感は、現実の外貌に劇的な変化が見えないことにも起因するのかもしれない。
〈ステイホーム〉が息苦しくなったとき、本当の〈監禁〉を余儀なくされた人の言葉が僕たちを支える。
非業の死を遂げた革命家ローザ・ルクセンブルクの『獄中からの手紙』(大島かおり編訳、みすず書房)から届く、小さき弱き存在への共感と森羅万象への繊細な感受性に満ちた言葉は、あらゆる壁を越えて、文化と自然への尽きせぬ愛によって僕たちをあたたかく包摂してくれる。
(2020年4月29日 朝日新聞より)
「方丈記私記」(全集第13巻、筑摩書房)
堀田(ほった)善(よし)衛(え)(小説家、評論家)
しかも、人々のこの優しさが体制の基礎となっているとしたら、政治においての結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治ではないということになるであろう。政治であって同時に政治ではないという政治ほどにも厄介なものはない筈である。このケジメというもののない厄介きわまりないものの解明に、おそらくは日本の政治学はその全力を注いでいるものであろうと、私など門外漢は推察をするだけである。そうして政治は、どうやら如何なる体制であれ、ほとんど自動的、本能的なまでに、政治は政治であって同時に政治ではない、という無限拡大の傾きをもつもののように私に思われる。政治は時に思い上って倫理に化けたり、規範だと自らを思い込んだりしはじめる。
「脱法厭わぬ権力中枢従う『配下』も共犯 法秩序ほとんど破壊」
蟻川(ありかわ)恒(つね)正(まさ)(憲法学者)
さる国のお伽話である。
詐欺師Aが、その国の政治を取り仕切る最高責任者を名乗るXに不埒な知恵を吹き込んだ。「この国の法ではできないことになっていることも、法を変更することなく、できるようにしてみせます」
それを聞いて、Xは喜んだ。それが本当なら、この国の政治は自分の思いのままになると考えたからである。だが、そんな夢のようなことが本当に可能なのか、自分では判断がつかなかったXは、側近のBに、そんなことが本当にできるのかと尋ねてみた。Bは、そんな夢のようなことができるのか、本当はわからなかったが、できないと言えばXの機嫌を損ねると思い、よく考えもせず、「できますとも」と答えた。
それを聞いて、Xは喜んだ。だが、実は小心なXは、もっと確かな保証がほしいと考えた。そこで今度は、Xの「配下」の者ではあるが、この国の法をつかさどる機関の責任者であるCに、保証はできるのかと尋ねてみた。Cは、そんなことができるはずはないと考えたが、保証をしなければXの機嫌を損ねると思い、Bと同じように答えた。「できますとも」
こうしてXは、法が妨げとなって自分の思い通りにならないことがあると、Aの甘言に従い、また、Bに背中を推されて、理の通らない法解釈をひねり出しては、その法解釈にCのお墨付きを得て、難局をしのいできた。
Xらのしていることはおかしいのではないかといぶかる者がいなかったわけではない。けれども、それらの人々の多くは、繰り返される同種の事態に感覚を鈍麻させられ、口をつぐんでいた。
そうした時代が長く続いていたある時「空気」を読まない一人の馬鹿者が人々の前に進み出て、満場に轟く声で言い放った。「法ができないと言っていることを、法を変えもしないでできることにするなんて、いかさまじゃないか」
アンデルセンの童話「はだかの王様」は、美しい布を織っていると偽って、空の機織り機に向っていた詐欺師の言葉を、大臣も、側近も、嘘だと言えなかったために、王が市中を何も身に着けずに行進する羽目になった物語である。沿道の子どもが「王様は何も着ていない」と言ったのをきっかけに、ようやく王は、わが身に起こったことの意味を理解する。
さる国のお伽話は、この「はだかの王様」によく似ている。だが、二つの物語には重要な違いがある。それは、「はだかの王様」の哀れな王と違い、このお伽噺のXは、Aとぐるだったという点である。
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