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小さな手大きな手

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2020年05月04週
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「時代へ、世界へ、理想へ」
高村薫
 日々仕事をし、ご飯を食べ、夜は眠る。その繰り返しで過ぎてゆく市井の人生でも、折々の生活の実感や家族の状況、あるいは良かったり悪かったりする景気の浮き沈みやときどきの財布の事情、そしてそれらが編み出す漠とした社会の空気まで、時代はかたときも立ち止まっていることがないという感覚がある。またさらに、長く生きてきた者では、それが一本の流れになって立ちあがってくるようにも感じられる。

 もっとも、それが何かの役に立つということはないし、社会生活での判断や選択を有利にするというわけでもない。強いて言えば、私は市井において、より良く生きたいと思っているだけである。そのために日々仕事や生活に精を出し、家族や友人たちとお喋りをし、笑ったり怒ったりして暮らしながら、一生活者としてものを考える。たまたま物書きを生業にしているため、折々に考えたことを世間に発表したりもするが、私はそれ以上の何者でもない。そしてそれでも、私には一日本人として大真面目に同時代を生きているという自負がある。そういえば、令和のこの国で影をひそめてしまったものの一つは、より良く生きるという、人として当たり前の志ではないだろうか。

「感染症と文明―共生への道」
山本太郎
 人類は、自らの健康や病気に大きな影響を与える環境を、自らの手で改変する能力を手に入れた。それは開けるべきでない「パンドラの箱」だったのだろうか。多くの災厄が詰まっていたパンドラの箱には、最後に「エルピス」と書かれた一欠片が残されていたという。古代ギリシャ語でエルピスは「期待」とも「希望」とも訳される。パンドラの箱を巡る解釈は二つある。パンドラの箱は多くの災厄を世界にばら撒いたが、最後には希望が残されたとする説と、希望あるいは期待が残されたために人間は絶望することもできず、希望と共に永遠に苦痛を抱いて生きていかなくてはならなくなったとする説である。パンドラの箱の物語は多分に寓意的であるが、暗示的でもある。

 それぞれの文明がどのような感染症を「原子感染症」として選択するかは、文明がもつ風土的、生態学的、社会的制約によって規定される。ひとたび選択された疾病は、文明内に広く定着し、人々の生活に恒常的な影響を与えると同時に、文明に所属する集団に免疫を付与する。その結果、感染症は、文明の生物学的攻撃機構、あるいは防御機構として機能する。こうした考え方は、歴史の中で感染症と文明を理解するための一つの枠組みを提供する。

「低線量被曝評価と科学の歪み」
島薗進
 東日本大震災後、伊達市は低線量放射線の評価と除染について、特殊な対応をとったことが知られている(黒川祥子「心の除染―原発推進派の実験都市・福島県伊達市」集英社文庫、2020年、初刊、2017年)。一つは、2011年6月から12年12月にかけて「特定避難勧奨地点」というものを設けたこと。また、市域をA、B、Cの3つに分け、比較的線量が低いC地点については除染を行わないことにしたのだ。これによって国から交付された除染交付金を水面下で返還することができた。
 さらに大きな事柄は、6万人の市民に個人線量計(ガラスバッジ)を装着させ、その値が航空機モニタリング値よりも大幅に低いことを示す研究が進められたことだ。この研究は、福島県立医科大学(福島医大)の宮崎真講師と東京大学(東大)の早野龍五名誉教授の名で、2016、17年に国際的な放射線防護研究専門誌に掲載された(宮崎・早野論文)。
 この2つの論文のもととなる研究が、対象とされた市民の同意を得ずに行われるなど学術倫理の基準を逸脱していること、また、分析に多くの誤りがあり、市民が受けた実質線量が幾重にも低くなるような結果が導き出されていることが明らかにされてきた(2018,19年に黒川眞一氏(高エネルギー加速器研究機構名誉教授)らが本誌などに発表したいくつかの論文による(特設サイト「ゆがむ被ばく評価」参照))。
 大学では原子力工学を専攻し、事故後いち早く伊達市の放射線アドバイザーに就任し、さらに初代の原子力規制委員会委員長となった田中俊一氏が、当初から伊達市独自の除染ポリシー形成に携わった。その田中俊一氏の指導の下で、伊達市は市民の個人線量計装着を押し進めた。黒川祥子氏は伊達市に関わる3人の科学者が、6万人の個人線量計のビッグデータによって、被曝線量の国際基準を緩和する方向に動かそうとする、壮大なゴールを達成しようとしたのではないか、と述べている(OurPlanet-TVの報道によれば、早野氏は田中氏のために論文出版前に主要解析結果の説明資料を作成したことを認めている。)
 宮崎・早野論文には1年以上前から立ち入った批判がなされているのに著者からの学術的にかみあった応答がない。今後、早期に疑惑をはらず反論がなされるのかもしれない。そうあってほしい。そうでないとすれば、これは科学スキャンダルとしても際立ったものになる。政治的意思にそって科学を歪めて偽りのデータ処理を重ねるというようなことはあってはならないことだが、東大名誉教授や原子力規制委員会初代委員長がそれに関与していたということになれば、その社会的影響も大きい。事態の展開を見守りたい。

「方丈記私記」
堀田善衛
 神官、宗教者としての彼らがこういうことをやっている間に、法然、親鸞、日蓮などの新興民間宗教が、ここでもすさまじいばかりの思想弾圧に耐えて、人々の心のひだに食いいって行ったのだ。親鸞は宗教者としての真の発足をするにあたって、つまりは教行信証の末尾に、朝廷一家に対する絶縁状、激烈な弾劾を叩きつける。「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ。」主上は天皇、臣下は貴族たちである。そうして、今様に言えば民衆のなかに入って行く。すなわち、親鸞は流罪に処せられる。人は流罪に処せられてはじめて民衆を知るのである。言っておきたいのだが、この流罪ということと民衆を知るということとは直通したことである。論理が少々飛躍をするとかもしれないけれども、ものを考えることを業(ぎょう)、あるいは業(ごう)とするほどにも思い上がった者が、罰せられずして民衆を知ったりすることが出来るわけがない。

「教行信証」
親鸞
 主上臣下、法に背き義に違し、忿(いかり)をなし怨(うらみ)を結ぶ。これに因りて、真宗興隆の大祖源空法師並びに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。この故に禿(とく)の字を以て姓とす。

「史上最悪のインフルエンザ」
アルフレッド・W・クロスビー、みすず書房
 新型肺炎の出現は、地球規模の感染症というものが、1918年にインフルエンザが出現したころとあいもかわらず人類にとって大きな脅威であることを示す結果となった。だが我々はこれに効果的に対応するためにさまざまな手段を持っている―科学的、組織的、政治的そして財政的手段である。我々は1918年当時よりずっと多くの情報を手に入れつつもヒステリックにならずにこれを迎え撃つ準備を整えなければならない。この難問の解決はけっして容易なものではない。寺田寅彦博士がいみじくも50年前に言った言葉がある。「ものを怖がらなすぎたり、怖がりすぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむつかしい」。我々が今、胆に銘じるべき言葉である。

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