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2020年08月04週
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(前週よりのつづき)
 感染症の現実と理解で、最初に多くを示唆されたのは「人文知を軽んじた失政」(藤原辰史、4月26日朝日新聞)でしたが、それを含む24人の提言を編集したのが「コロナ後の世界を生きる/私たちの提言」(村上陽一郎編、岩波新書)です。藤原辰史が示唆、指摘するたとえば「失政」が具体的に何であり、少なくとも失政ではない向い合い方がこの感染症の場合でも不可能ではないことをこの「コロナ後の世界を生きる」から読み取ることができます。それがドイツに在住し小説を書いている、多和田葉子の「ドイツの事情」だったりします。「なぜシャットダウンするのかについてのメルケル首相の説明は、若い人は感染しても症状が軽いことが多いが、感染が広がれば病人や老人が命を落とすので弱者を守るためにみんなで協力しよう、というものだった。日本では『自粛』という言葉が使われているようだが『誰のための自粛か』は曖昧なままだ」(前掲書)。こうした政策を国民に直接訴える場合の、メルケル首相には、人間理解の奥深さと広く人間を受容するという意味での思想基盤、政治理念が確かなものとして備わっているからだと考えられます。シリアなどで、たくさんの難民が発生し、その人たちがヨーロッパへ向い始めた時、無条件で受け入れるとし、実際に国境を閉ざさなかったのが、ドイツのメルケル首相でした。同じように、難民の問題に言及しながら、具体的な対応としての受け入れを、ほぼ一切しない日本と日本国首相とは大きな違いなのです。たぶんそれは、人間理解の深さと、広く人間を受容することにおいての思想基盤、政治理念の違いによるところが大きいはずです。
 感染症患者が少なくなり、緊急事態は一旦終結することになり、多くの人たちが生活を感染症以前に戻してそんなに経たないうちに、患者は増えています。むしろ、緊急事態を宣言した時よりも“激増”しているのが現実です。しかし、緊急事態が宣言された時のような危機感も、あの時の言わば危機感をあおるというようなこともなく、マスコミも行政も現状ではあえて“平常”を装っているように見えます。と言うか、あの時のように、それまであった社会・経済・生活が吹っ飛んでしまうようなことを、もう一度繰り返したりすることが難しいからだと考えられます。あの時は、“今まで”をもう一度取り戻すことの緊急のつなぎとして、一律10万円が配られたりしたのを筆頭に、国の借金を増やせるだけ増やして、大盤振舞をしました。たとえ今、状況はさらに悪くても、あんなことを繰り返すことができないのは目に見えているからです。そうして国、政治が静観しているうちに、少なからず元に戻った生活の中から、感染者が増え始め、“激増”しているのが現状です。ただ、患者数が増えるだけではなく、既に医療体制が追いつかなくなっていますから、亡くなる人も又“激増”しはじめています。
 この国も、この国の人たちが今一度立ち止まって、この感染症との立ち向かい方、もっと言えば人としての生き方を見直すということで、自ら気付き、示唆している人たちがいない訳ではありません。前掲の「コロナ後の世界を生きる/私たちの提言」は、生き方を見直すことや、既に始まっていることなどを、幅広く受けとめ、提言しています。
 レベッカ・ソルニットの「この危機を乗り切る方法は私たちが一体になること/コロナウィルス渦中に芽吹く相互扶助」(文芸、2020年 秋号)は、「今起こっている災害のさなか、数えきれないほどの思いやりと連帯の行動を目撃している。この寛大さの精神こそが、私たちをこの危機から抜け出させてくれ、より良い未来へと導いてくれる」で始まっています。一方で「ほぼいつでも利己的で破壊的な人は存在し、そういう人々が往々にして権力を握っている。なぜなら、そういう性格と道義心を持っている人たちに見返りを与える制度を私たちが作りあげたからだ」の、そのままが、この国、この国の人たちの中に横行してしまっているのが事実であるのは残念ですが、現金をばらまくことで、感染症の事態と立ち向かえるとする「権力者」の方針であってみれば、起こるべくして起こっていると言わざるを得ません。
 しかし、他のどの国よりも貧窮や分断が際立つアメリカ、そして、その結果の感染を強いられる人たちが、貧しさや分断の負の部分を背負わされる状況で、レベッカ・ソルニットの報告のようなことが起こっているのも事実です。感染症の状況は、更なる貧窮と分断、貧窮と分断の結果、感染症対策が間に合わない結果たくさんの人の死亡になったりしています。感染症があぶり出しているのは、感染症そのものはもちろんですが、レベッカ・ソルニットがたくさんの具体例で示しているのは、分断社会アメリカで大小のうねりとなって起こっている相互扶助の取り組みです。感染症と向かい合うのは、日本の政治が実施した札束をばらまくことではなく、人と人との連帯と相互依存、相互扶助によって生きてしのぐ道を切り開くのがウイルスからの合図に対する応答なのです。
 パオロ・ジョルダーノの、詩篇の祈りについての考察は、改めて人として生きる日々はどんな時のどんな状況においても変わらないことを示唆しています。「旧約聖書の詩篇90篇にひとつ(12節)、このところ僕がよく思い出す祈りがある。『われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください』、そんな祈りを思い出すのは、感染症の流行中は誰もが色々なものを数えてばかりいるからなのかもしれない」「でも、僕はこんな風に思う。詩篇はみんなにそれとは別の数を数えるように勧めているのではないだろうか。われらにおのが日を数えることを教えて、日々を価値あるものにさせてください――あれはそういう祈りなのではないだろうか。苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々を含めて、僕らは人生のすべての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか」(「コロナの時代の僕ら」パオロ・ジョルダーノ)。たぶんこれは、何が何でも人生を価値あるものとするということではなく、「日々を価値あるものにする数え方を学ぶ」ところが、新たな発見であるように読めます。どんな人にも、やってくる日々があります。どんな過ごし方をするとしても、それはその人の一日です。特段の語るに値することがなかったとしても、他の誰のでもない自分の一日の、自分の時間であるとすれば、そんな自分のそんな時間は、どんなに感染症が猛威を振るったとしても、その人が持っている手持ちの時間であり、決しておびやかされることはないはずです。逆に、自分の時間に意味付けをし、時には特別の意味付けをすることが自分の存在価値であった時、感染症が露わにすることになったのは、そんな自分の自己理解が人間としてのもろさと言うよりは結局は空っぽの城郭に過ぎなかったことを暴露することになったのです。一方、その時に残されるのが、本来の正真正銘の自分の「おのが時間」であるだろうことを詩篇から読みとろうとしたのが、パオロ・ジョルダーノです。
 たとえば、自粛のもとにちぢこまって生きてしまう時、そうして身を守ろうとしてしまう時、それは身を守るのではなく、「おのが時間」の浪費、喪失に他なりません。あのはなはだしい差別と暴力の更に感染症のアメリカで、レベッカ・ソルニットが指摘する相互扶助の数々の取り組みは、感染症が根こそぎ奪おうとする中で、「おのが時間」の再構築の歩みであると言えます。
 自粛・自粛・自粛・自粛・自粛・自粛・・・
 ぼっーと生きてんじゃねえよ!
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