日本キリスト教団西宮公同教会・西宮公同幼稚園
教会について
礼拝・諸集会のご案内
小さな手・大きな手
公同通信
教会学校について
公同幼稚園について
どろんこと太陽
関西神学塾:スケジュール
関西神学塾:講師紹介
楽しい学習
賃貸住宅事業部とは
テナントについて
活動内容
アートガレーヂについて
催し物のご案内
リンク
アクセスマップ
お問い合せ
width=1
top>小さな手大きな手
width=639
小さな手大きな手

height=1
2020年11月02週
height=1
(前週よりのつづき)
 たとえば、汚染水の処理で「最後まで残っている」のはトリチウムだとされますが、溶融した壊れた原子炉及び機器を冷却する為に注入し、そのまま漏れ出す高濃度の汚染水は、大きくは、2つの段階・施設で「除去」されたことになっています。第1段階のセシウム、第2段階の多核種のいずれも、交換式のカートリッジが満杯になると取り外され、東電福島の敷地内に仮置きされ、増え続けています。これも当然、東電福島の事故によって環境中に放出された汚染物質であり、「国際」的にも、こうした放射性物質が環境中に仮置きされ増え続けている事例はありません。
 ただ、これらの放射性物質を環境中に仮置き、放置することは「国際基準」からもあり得ないのですが、東電福島の場合に限って「特例」として許されています。既に述べたように、「中間報告」で指摘されているように、東電福島は「特定原子力施設に指定」されているからです(「中間報告」P5)。たぶん、「中間報告」で示されている、東電福島の廃棄物の総量として示される、780万トンのうちにこれらも含まれている(?)のでしょうが、特製容器に満杯の高濃度放射性物質の処理はセシウムの半減期の30年などから、ほぼ半永久的に仮置きされざるを得なくなります。
 なのに、東電福島の事故は「伝承館」で語られる「伝承」の問題になり、あたかもそれしかないように、国・政府に丸投げのトリチウムの処理としての海洋放出、その場合も問題として残されるのは「風評被害」だけということになりつつあります。
 で、もう一度「中間報告」で示されること中でも「図4、1-1検討範囲と時間軸」の図をもとに東電福島の重大事故の事実を検討すると以下のようになります。











この図で、エンドステート直前の「環境修復完了」との間が「⇢」となっていますが、事故の事実は、2011,3,11と事故対応完了の間の「→」も、正確には「⇢」です。当然、その後のすべての「→」もひとつ残らず、正確には「⇢」とならざるを得ません。たとえば「安定化完了」と「燃料デブリ取り出し完了」の間の「→」も「⇢」です。その間に「→現在燃料デブリ取り出し」とありますが、溶融した燃料デブリの形状の確認も、超高濃度の放射線量が拒み続けています。当然、もし「最終的な状態、エンドステート」なるものがあり得るとしても、それを図に示すことはそもそもが、不可能なことです。
 もし、日本原子力学会が、学会・学問の名において、「廃炉」の前提であるいわゆる放射性廃棄物の処理に言及するのであれば、事故から10年を前にしても尚、自らが示す図の最初の段階にさえ達していない事実を謙虚に認め、この事故の困難さ、処理不能である事実を国の内はもちろん「国際」社会に向けて明らかにすべきであるように思えます。
 日本原子力学会、廃棄物検討分科会の「中間報告」について検討は、報告書末尾に記されている、いわゆる「学」者ではなく、2011年3月11日に始まってしまった事故が、生身の人間を陥れかつ刻み込んだ、極限の恐怖の記憶がなさしめるところから始まった記述です。
 あの事故の「生身の人間を陥れかつ刻み込まれたのは、極限の恐怖」は、はるか遠くから望んだとは言え、次々と起こる爆発と、それを遠くから手をこまねいて見るよりない「生身の人間」の無力でした。事故から10年を前にしても、この事実を、「生身の人間」は決して変えられないことの、言わばあからさまな「証言」として中間報告書は読み取れるように思えます。たとえば検討対象の「デブリ取り出し」にしてもそれを難しくしているのは、一日一日、一瞬一瞬のうちに進歩する機械・科学技術のどんな力をもてしても及ばない、「生身の人間」の「手動」を求めそれを拒むのは、環境に放出されてしまった放射性物です。
 「中間報告書」に一貫しているのは、この事実と意味を直視するのではなく、「廃炉」から始まって、定義の立て方を変えることによって、事故及び事故対策の全体像を作り変えてしまう作為です。
 しかし、事故の事実は変わりません。
 生身の人間を陥れかつ刻み込んだ極限の恐怖、それが東電福島の事故です。

 もう一つ、遺伝子決定論的な考え方も気になります。これも機械論ですね。しかし今度の新型コロナウイルス問題で、私たち生き物の世界は遺伝子決定論では理解できず、その私たちがウイルスとつながっている、ということがはっきりしたと思います。このような、機械論とは違う考え方で、原発やBSL4施設なども含めて、大事なことは何であり、今何をする必要があるか、何をしてはいけないかを一人一人が考える社会にするチャンスにできれば、禍を禍だけで終わらせずにすむと思うのです。
「ウイルスとは何か/コロナを機に新しい社会を切り拓く」
(村上陽一郎、中村桂子、西垣通、藤原書店)
height=1
[バックナンバーを表示する]
height=1


?????width=80

Copyright (C) 2005 koudoukyoukai All Rights Reserved.