「子ども」をめぐる思想
――「起こりうる最悪の事態」を考えながら
藤原辰史
今週から3回にわたって、「はらっぱ」(子ども情報研究センター)に掲載された、藤原辰史(ふじわらたつし)さんの文章を紹介します。藤原さんは、現在京都大学人文科学研究所准教授。感染症の状況で、いち早くこれらのウイルスについての洞察をもとに、戦うのではなく「共存」することを解かりやすく発信しておられることを知ることから、この状況を生きる覚悟と確信を得たように思えます。著者などは、以下の通りです。
著書:「給食の歴史」(岩波新書)、「食べること 考えること」(共和国)、「ナチスのキッチン」(共和国)、「分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考―」(青土社)など、「道草の雑想」(クーヨン連載中)、
「コロナ後の世界を生きる ―私たちの提言」(村上洋一郎編に『パンデミックを生きる指針』を執筆)、他。
考えたくもないことを考える
いま、「積極的なネガティブ思考」をする力が試されている。
今回のパンデミック第一波が、子どもたちに対する致死率が低いウイルスによってもたらされたことは、全くの偶然であり、幸運であったと言わざるをえない。100年前のパンデミックであるスパニッシュ・インフルエンザのとき、世界中で、おとなよりも平均的に寿命が長く、抵抗力の弱い乳幼児や子どもたちが多数死んだことは、歴史が証明している。感染症の歴史の中で子どもたちが死ぬことは、それほど珍しいことではない。
今後、新型コロナウイルスが生存戦略を変え、弱毒のままでたくさんの人間に運んでもらう代わりに、毒を強めて宿主の殺害に戦力の舵を切るのだとしたら、どうなるだろう。あるいは、新型コロナウイルスが仮に鎮静化しても、毒を強めた鳥インフルエンザが流行した場合、どうなるだろう。100年前も今回も学校は一時的に閉鎖されたが、今度はもっと徹底的な学校閉鎖が検討されるだけでない。たくさんの子どもたちが、死の危険にさらされるのである。
しかも、こんな事態のとき、おとなにできることは限られる。17世紀ロンドンで猖獗(しょうけつ)を極めたペストのルポルタージュの中で、デフォーは、家財をまとめて田舎に引っ越そうとする家族を描いているが(『ペストの記憶』)、人口稀少地域への都市からの逃亡がありえないとは言えない。保育園、幼稚園、小学校から大学まですべてが閉鎖されることは間違いない。家庭内にウイルスを運ばないように、今よりももっとうがい、手洗い、歯磨き、換気、清掃に気を使い、都市封鎖を徹底して、子どもの安全を考えるだろうが、その不安の度合いは第一波の比ではない。
スパニッシュ・インフルエンザのときも、第一次世界大戦がもたらした飢えともあいまって、小さな棺桶の製作が子どもの死に間に合わなかった。
まず、今のうちから、足元がふらつく感覚、背筋が凍る感覚、視界が真っ暗になる感覚と向き合うことは、災害多発列島では、単に未来の精神的訓練ばかりでなく、来るべき仕組みを構築していくのに役立つ。とくに保育や教育に携わるものは、明日には自分が感染して面会禁止の病院に運ばれるかもしれない、もっと言えば、子どもたちとずっと会えなくなるかもしれない。そういう不安を抱くことは普通だし、そんなごく普通の感覚には、未来の社会を作る上でのヒントが詰まっている。
子どもを死に追いやってきた私たち
では、足元がふらふらする中で、今、私たちはどんな「子ども」をめぐる思想を鍛えなくてはならないだろうか。
自分と自分の愛する子どもがとるべき行動の指針を考える前に、前提として考えておかなければならないことがある。新型コロナウイルスが蔓延するずっと以前から、家庭や保育園や小学校で育てている子どもを、突然失うかもしれないという不安をずっと抱いて暮らしてきた人たちが多く存在していることを、新型コロナウイルス以後、考えないで過ごすことはもはやありえない、ということだ。
今年の春よりも前から、この世界を生きる私たちは、私たちの「経済活動」や「国益」を支えるために、いつ人生の綱渡りから足を滑らせるかもしれないリスクを、世界中の子どもたちに押しつけてきた。
(次週につづく)
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