(前週よりのつづき)
たとえば、「大量破壊兵器」があるという偽の事実に基づき、2003年3月20日にアメリカがイラクに仕掛けた戦争を、そして、それを支え自衛隊を派遣した小泉純一郎を筆頭とする自公政権を、日本国民が支持したことを私たちは忘れただろうか。私は、大阪のイラク戦争反対のデモに参加したり、アメリカ大統領のブッシュが京都御所に来ると聞いて、同僚をデモに参加したりした。子殺しの戦争だったからである。首都バグダッドへの米軍の空襲で子どもたちは次々に亡くなった。しかし、小泉純一郎はブッシュへの支持を止めなかった。大量破壊兵器が存在しなかったことが明らかになったあと、日本外務省はどうしてそうなったのかの検証を実施したが、それはわずかA4で4ページの報告書を作成するにとどまっている。「「イラクにおける大量破壊兵器の存在』など、国際的に概ね認識が一致していたような情報といえども敢えて批判的な視点から分析し、政策の検討を行っていくことが重要であろう」という虚しい言葉だけを残して。
映画『リトル・バーズ―イラク戦火の家族たち』(2005年)は、あの戦争を止められなかった日本の主権者のひとりである私の心に、深く刺さったままである。日本人の綿井健陽監督は、戦争が始まったバグダッドでカメラを回した。開戦の前日、イラクの男性に監督は「お前は日本人だろ、なぜアメリカを支持したんだ」「お前たちも同罪だ」という言葉をぶつけられる。もちろん、この「日本人」とは、アメリカから原爆を2発落とされた国の主権者であるお前が、という意味である。
3人の子どもを空襲で失った父親が主人公だが、そのひとりの小さな娘が、アメリカの空襲で頭を破壊され、脳の内容物が漏れ出るのを脱脂綿や包帯で何とか抑えようとしている。父親は、死ぬことが確実な娘の血だらけの頭を抑えながら、「これが大量破壊兵器か?」とカメラに大声で叫んだ。これに対して、ブッシュとブレアと小泉純一郎とそれを支えた日本人はどう答えるのだろう。ブッシュは、どうして、子どもの目線の高さで小さな金属片がばら撒かれるクラスター爆弾を投じたのか。それによって、子どもはどうして視力を失わなければならなかったのか。
「植物由来の成分配合」というシャンプーの宣伝文句やチョコレートやドーナツなど日本人の欲望のために作られた東南アジアのパーム椰子のプランテーションで子どもたちが働いているのだとしたら。日本人が競って購入するスマートフォンやゲーム機に必要な小さな容量だけれど重いレアメタルをめぐる紛争のために、現地の子どもたちが命を失っているのだとしたら。給食がなくなって、まともな食事を食べられない子どもたちが日本列島にたくさんいるのだとしたら。原発事故や地震や水害で避難生活を強いられ、感染のリスクにも、生活のリスクにも同時に怯えている子どもたちが、日本列島の人々によって忘れられようとしているのだとしたら。
これらの現実を踏まえた上で、コロナの時代、「子ども」という思想をどこまで鍛錬することができるかが、私たちは試されているのである。
仕組みを根っこから考え直す
そうした、私たちの政治行動や消費行動と密接に関わっている世界中の子どもたちへの暴力を止めるための努力を怠らないことを誓って、ようやく、私たちの足元の仕組みに目を向けることができる。誰もが、自分が育てている子どもの死を恐れている。それは当然であるし、その思いを誰も否定できない。重要なのは、その思いが全世界でほとんどの親たちに抱かれていることを、もっと深く、強く、確認しなければならない。
新型コロナウイルスの蔓延がピークに達していた頃、子どもたちを保育園で毎日みている京都の保育士の話を聞いたことがある。精神的にも肉体的にも「ギリギリの状態」で、緊張感にさらされている、と言う。でも、疲れた顔を子どもに見せるわけにはいかない。凄まじい仕事だと思う。保育者も教育者も、子どもと接触しなければ、子どもの生命を守り育てるという尊い仕事ができない。
(次週につづく)
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