(前週よりのつづき)
だから、乳幼児の感染や事故は、誰かひとりの保育士、どこかひとつの保育園のせいになる、ということはあってはならない。複合的な原因の積み重ねの上で、ある人は感染したり事故に巻き込まれたりしたのであり、そこには、親や、預けることを勧めてきた企業や地方自治体や国も必然的に絡んでくる。感染経路の確認が、現在の各地の地方自治体で起こっているように、ある人、ある集団への攻撃をすることは、その国の人びとの品位の欠落を示す。
これまで、もう十分に古くなった自己責任論の仕組みを、いまこそ徹底的に壊さなければ、もう間に合わない。自己責任論は、企業の失敗と雇用者の馘首(かくしゅ)を個人の努力のせいにできる。日本列島に住む有権者は、この仕組みに投票してきたのである。
自己責任論では、災厄による不幸とそこから這い上がろうとする民の力に社会が耐えられない。何かを継続的に保ちつづけるというメンテナンスの仕事は、たとえば、保育や看護や教育や清掃や家事や農林漁業や介護の仕事は、その対象となる人の命が失われたとき、その事故の原因として名指しされやすい場所にある。にもかかわらず、給料も含めてケアが薄い。新しい時代は、地域の住人、税金の支払者などが、保育、看護、教育、清掃、家事、農林漁業、介護などの参与者であるという自己意識が求められる。そのとき、喜びだけを共有する、ということはありえない。悲しみも、辛さも、行き場のない感情の共有が、今後求められるだろう。少なくとも、税金を拠出し合って、社会的に弱い立場の子どもを支えようとしているのであれば、こうした思考に戻らなければならない。さもなければ、自己責任社会は災厄を受け止めきれずに、多くの子どもの苦しみを増大させるだけだろう。
そして、もう一点、忘れてはならないのは、私たちが納税者であるとともに消費者であるという事実である。消費者としての責任も、世界中の子どもたちに対して問われている。子どもが苦しめられてようやく手に入れられる商品を私たちが毎日使っているのだとしたら、あるいは、世界各地の子どもを死に向かわせる仕組みを変えようと努力しないで、どのような顔をして、寝床についた子どもに「大切なものはね、目に見えないんだよ」という『星の王子さま』のメッセージを音読できようか。
新型コロナウイルスの感染拡大を契機にして、私たちは、自分に関わりのある全ての子どもが、「経済活動」という名のもとに死に近い場所に追いやられる構造を批判し、崩壊させなければならない。そういうことを原理的に言って「子育て」というのではないだろうか。もちろん、そのために、紛争地に行く必要は必ずしもない。納税者として、消費者として自分が感じる「わりきれなさ」や「誰かへの罪悪感」を、他の人に告げ、まとめ、発表し、どこかの子どもが死ぬことでしか成り立たないシステムを内側から崩壊させていくことが、早急に求められている。
私たちはずっと、自分に不都合な暗い事実に目をつぶるのではなく、それを知る勇気を出す知性を磨くことを怠ってきた。そして実は、その知性を学ぶチャンスは、義務教育前の子どもたちにもまた、あふれていると私は思っている。
実際、私が子どもに読んで聞かせた優れた絵本には、人生を生きる喜びとともに、このような「後ろ暗さ」もこっそり忍ばされていた。
たとえば、小海永二作・柳原良平イラストの『たぐぼーとのいちにち』(1959年刊・福音館書店)は私のお気に入りだった。歯切れのよいリズム、余分な情緒を排したさっぱりとした絵。大きな船を運ぶ小さなタグボートの健気さ。大きな船を見送ったあとの達成感。だが、全体として、どこか哀しさが漂っているのを感じるのは私だけだろうか。それは、大きな船が『あるぜんちなまる』という異国の響きを持つ名前だからである。日本とアルゼンチンを結ぶこの大型客船には、占領後すぐに、貧しい日本から南米に渡って新しい人生を切り開こうとする移民が乗っていた。どれだけの親しい人との別れと悲壮な決意をタグボートが見てきたのか。この歴史を知らない子どもにも、このような雰囲気が静かに伝わるような絵本だと思う。
「明るい未来」というまばゆい言葉に視界を奪われることなく、心を冷徹にして「後ろ暗さ」と向き合うことは、決して「自虐」というような言葉で過小評価されるものではない。暗さを見通そうとする力は、明るさのありかを探る力でもあるからだ。
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