東北の大地震、大津波、そして東電福島の事故から10年が経とうとしています。多くの人たちにとって、あの大地震、大津波は「想定外」で、もし失うものがあったとしたら、そのすべてを引き受けて生きるよりありませんでした。何よりも厳しかったのは、取り返しの付かない事実とその後の日々を生きることで、10年が経ってしまったことです。巨大な津波は、人によっては「行方不明」という事実を突きつけて今日に到っています。
そして、「想定外」と言われ、すべてにおいてその事実がつまびらかになることを怠ってきたのが、いいえ事ここに到っても隠蔽(工作を)されてきたのが、東電福島の事故です。たぶん、ついやされてきた10年間が、多くの人たちにとって、過ぎて行く時間が恐怖に怯えたあの時を風化させるのにも充分だったからです。何よりも、伝えられてくる情報の量が、たとえば「全国紙」の報道が、そのことを決定的にしています。さすが、東電福島の事故の福島の新聞(たとえば福島民報)は、ほぼ毎日、事故をめぐって毎日起こり続けていることの数々の断片を伝え続けています。それも、終わってもいない事故を伝承するという「伝承館」を扱う時の記事は、それが隠蔽であるとは決して書きません。たぶん書けないのだと思えます。終息、復興という、作られた大きな潮流に棹をさす時、この新聞が生き残れなくなると判断しているのかも知れません。東電福島の事故後に、事故をめぐって行われていることの、ほぼすべてが「隠蔽」であるにもかかわらずです。事実を語らないことが条件で建設されたのが「伝承館」なのですから、その隠蔽に立ち向かうことを、東電福島の事故の地元新聞にだけに求めるのは、求め過ぎと言うか,本来同じように問われているはずの、「私たち」もまた結果的には「隠蔽」に荷担していることを意味します。
2011年3月11日の大津波がすべてをのみ込んで行く圧倒的な映像に始まった大地震が、そんなに間をおかないで、「私たち」の恐怖として迫ることになったのが、東電福島の事故でした。
恐怖に怯え、そしておののきながら伝えられることに更におののきながら一刻一刻を過ごし、過ごしながら感じる違和感を書き始めることになったのは、何よりもその違和感そのものだったように思えます。で、違和感の元になる、大きな空洞を埋めるようにして、調べられる限り調べ、知り得る限りの「元」の部分を探る、旅のようにしてそれこそ夜も昼も文章を書き始めることになります。誰かに読んでもらうことを期待するというよりは、次から次へと起こる違和感、納得し難いことの気持ちの悪さが原動力になって、書くことを止められませんでした。
そうして書き始めた50号ずつ分をまとめたものを「備忘録」と名付けました。これが、「忘れない為の(記憶の)記録」とも言えるし、「(どうせ)忘れてしまうことの記録」とも言えますが、たぶん動機になったのは、魯迅の「忘却のための記念」の遠い記憶だったと思います。10代の終わり頃から、断片的に読んできたのが魯迅です。何かある度に、その断片の記憶がよみがえってくることがありました。
1995年1月17日の兵庫県南部大地震の後、いくつかの経緯があって結成されることになる、兵庫県被災者連絡会(代表、河村宗治郎)の呼びかけで、被災した人たちが神戸市役所、および神戸市役所前に集まることになります。神戸市役所一階も避難所になっているような状況で、緊急避難している人たちが、少しずつ避難生活の改善を求めることでの交渉を始めるようになります。住居も生活の手段も失った人たちであっても、失って人と出会う時に、奪われ失った言葉を少しずつ取り戻す、そんなことが起こる、そんな時間であり場所でした。しかし、緊急避難したはずの、それぞれの人たちのそれぞれの場所は、災害をめぐる決められた対応の、その対応の都合で変わって行くのが、避難している人たちにとって納得しにくかったのは、一人一人が同じではなかったからです。しかし対応は、有無を言わさず、先へ進められて行き、やむを得ず抗議する人たちが集まってきた場所の一つが神戸市役所前でした。
そこには、人が生きる生活の何よりも大切な小さいながら人としてのつながりを、大地震によって奪われてしまった人たちが、地震後の生活の見通しを願って集まっていました。言わば、つつましく生きてきて、それさえも奪われた人たちでしたが、集まって出会っている人たちが、どこかでそれぞれが、それぞれを尊重し合っている、人間として別け隔てなくつながっている、そんなことを感じさせる人たちであり集まりでした。避難場所を追われ、それらを力ずくで集約した場所を指定され、移された人たちが集まって窮状を訴えるのですが、なのにそこには、人と人とが全く断絶しているのではないことを、強く思わせる、言わば、人と言うものの底力を思わせるものが共有されていることを感じさせる「何か」がありました。
そんな神戸市役所前で、特に何をと請われた訳ではありませが、そこのその場所の状況が記憶の底から呼び起こすことになったのが、魯迅のいくつかの言葉で、それを長さ6~7メートルの白い布に書いてもらい、神戸市役所前のポールにのぼりとなってたなびくことになりました。
一つは、「絶望の虚妄なることは希望と相同じい」もう一つは「希望なきところに救いを得たり」でした。いずれも、しばらくたなびいた後、警備員によって撤去されてしまいましたが、その場所に違和感なくたなびいて、違和感なく読まれたに違いないと思っています。
そんな時に書き始めていた「じしんなんかにまけないぞこうほう」は、その後も断続的に書き続けられ、書き続けられながら迎えることになったのが、2011年3月11日の、東北の大地震、大津波そして東電福島の事故でした。
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