(前週よりつづき)
武藤類子さま
「ああ福島」が収まっているCD、李政美さんの「おとと ことばと こころで」を、お届けいただき、ありがとうございます。ひと通り聞かせていただいた印象は、李政美さんの歌う「ああ福島」が、CDにすっぽり収まっていることでした。
そして、驚いてうれしかったのは、「おとと ことばと こころで」で、李政美さんが、尹東柱の「空と風と星と詩」の「序詩」そして、李相和の「奪われた野にも春は来るか」を歌っておられることです。西宮公同教会の教会学校では、在籍している子どもたちで、5年生以上の子どもたちの4泊5日の夏のキャンプを、沖縄県今帰仁村で実施してきました。キャンプ場は、今帰仁村役場から西にむかって本部半島の中間、今帰仁城近くの海岸の、ほぼプライベートなビーチに面した牧場のあと地です。キャンプ期間中の5日間は、ほぼプログラム無しの時間を過ごしますが、参加した子どもたちは、「美ら海水族館」が近いのに出かけたりしないことに、ブツブツ文句を言ったりしています。
このキャンプで、沖縄に着いて訪ねることにしている場所の一つが、宜野湾市の佐喜眞美術館です。丸木俊、位里の「沖縄戦の図」と子どもたちが出会ってもらうのが目的ですが、個人的には、佐喜眞道男さんの集めてきたケーテ・コルヴィッツの版画や彫刻に出会えるのも、もう一つの目的です。
2013年7月にも、子どもたちと佐喜眞美術館に立ち寄ることになりました。その時、常設の「沖縄戦の図」とは別に特別展が開催されていて、鄭周河の福島の写真展、「奪われた野にも春は来るか」でした。特別展の2つの部屋の最初の壁に、「奪われた野にも春は来るか」の全詩が掲示されていて、その詩との初めての出会いが心に残りました。写真展では展示されている写真と合わせて、と言うか、写真展の元にもなっている、鄭周河の写真集「奪われた野にも春は来るか」が置かれていて、購入することになりました。ハングル、日本語、英語で解説されている写真集には、写真集、写真展の企画者の一人でもある徐京植の翻訳でその詩の全詩が掲載されていました。
徐京植がその詩に言及する少し前の部分から長くなりますが引用します。
「李相和は3.1独立運動が日帝の武力によって鎮圧された後、欺瞞的な『文化政治』が繰り広げられる1920年代の状況を『朝鮮病』という詩に歌っている。
ああ、せめて
あの空に
窓でも開けられぬものか。
息がつまる…
これは、その時代を生きる朝鮮人の多くが共有した思いであろう。
その後、李相和は日本にわたり1923年9月の関東大震災の時に繰り広げられた朝鮮人虐殺を目撃して朝鮮に帰郷した。1925年にはカップ(挑戦プロレタリア芸術家同盟)に発起人として参加している。翌年、雑誌「開闢」に「奪われた野にも春は来るか」を発表したが、この詩を掲載したため「開闢」は発行禁止処分を受けた。その後、李相和は多くの苦難を経て1943年4月25日、ソウルで死去した。
私が感じた疑問とは、こうだ。李相和の生きた時代、朝鮮の土地を奪ったのは日本帝国主義であった。いま、福島の人々は自国の政府と企業によって土地を奪われた。この両者を並列し同等に語ることは許されるのか?それは、植民地支配と原発災害を同一平面に並べて相対化することによって、ただでさえ植民地支配責任に無自覚な日本国民たちを誤った認識に導くことになりはしないか。
この疑問を抱えながら、わたしはあらためてその詩を読み直してみた。
いまは他人(ひと)の土地――奪われた野にも春は来るか
私はいま全身に陽ざしを浴びながら
青い空緑の野の交わるところを目指して
髪の分け目のような畦(あぜ)を夢の中を行くようにひたすら歩く
唇を閉ざした空よ野よ
私ひとりで来たような気がしないが
おまえが誘ったのか誰かが呼んだのかもどかしい言っておくれ
風は私の耳もとにささやき
しばしも立ち止まらせまいと裾をはためかし
雲雀(ひばり)は垣根越しの少女のように隠れて楽しげにさえずる
実り豊かに波打つ麦畑よ
夕べ夜半過ぎに降ったやさしい雨で
おまえは麻の糸のような美しい髪を洗ったのだね
私の顔まで軽くなった
ひとりでも足どり軽く行こう
乾いた田を抱いてめぐる小川は
乳飲み子をあやすよう歌をうたい
ひとり肩を躍らせて流れゆく
(次週につづく)
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