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2021年07月03週
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(前週よりのつづき)
(2)6月13日から6月29日までの沖縄タイムスから、沖縄に米軍基地が存在する、その存在を強いられることによって起こっている事件を拾い出しましたが、それが本来は「日本・ヤマト」で生きる人たちの生活、生存をおびやかすまさしく「事件」であるにもかかわらず、そのことによって、有無を言わせず生活・生存をおびやかされる、当の沖縄県で生きて生活する人たちによって以外、日本・ヤマトは関心を寄せることはありません。あたかも、沖縄島及び沖縄島で生きる人たちは、「日本・ヤマト」から、距離的に遠いだけではなく、その世界の外にあるかのように理解されてでもいるかのように。
たとえば、沖縄島に広く張りめぐらされるように存在する米軍基地は、いつだって戦争に臨むことが最優先される時、基地近くに住む人たちの生活は常に踏みにじられることになります。「嘉手納湧水基準の22倍、20年度PFOS県内4地点超過」(6月23日、沖縄タイムス)だったりするのは、「日本・ヤマト」の普通に生活をおびやかすという意味で広く「日本・ヤマト」で、共有される問題であるにもかかわらず、ほとんどの「日本・ヤマト」で生きる人たちの日常からは遠いままでした。元官房長官が「地方自治の本旨」と言う時その精神のほんのかけらからも、沖縄は除外されていることが、前掲「思て通らな通信」の元官房長官の言説に、余すところなく語られています。
(3)沖縄島の人たちが何より願い、生きた生活の中で内実化してきたのは、外ならない本来の意味での「地方自治の本旨」です。外から押し寄せる圧倒的な力、暴力にさらされることがあっても、そこにしかない生活があり文化がありました。その中心となって、人々の生活文化を形作ってきたのが言葉「ウチナーグチ」(沖縄語、 島言葉)です。それは沖縄島で生きる人たちの魂のつながりをどんな時にも守る要になり、それが日常の生活に深く広く浸透する時の根源的な力になってきました。どんな激しい闘いの状況であっても、ウチナーグチで歌うことそれを深く広く身体表現にする時、激しい闘いに終わるのではなく、しかし優しい心のつながりが、そこにいるすべての人たちに広がって行く原動力になってきました。遂には圧倒的な暴力にさらされることになる、辺野古新米軍基地建設反対の現場でも、そのことが、闘いを次へとつないで行くことを、繰り返し目の当たりにしてきました。
そうしたことの根底にあるのは、沖縄島の人たちによって共有され、伝えられてきた生活文化であるのは間違いないのですが、もう一つ別の視点から深まって行く時明らかになるのは、人が人とその世界を負の側面から見てしまうことは、決して正しくはないという、生活に根差した感覚と、それを具体的な生活の中で実現してきた思想があります。その一つが「万国津梁」です。沖縄島の人たちにとって、沖縄島は閉ざされた島社会ではなく、東アジア、ひいては世界をつなぐ、人間が人間として生きる時の、共存が何よりも尊重される「万国津梁」の島なのです。
今、日本・ヤマトによって尖閣諸島は「領土」として宣言されましたが、そうして「境界」を強調することによって、尖閣は2つの国の抜き差しならない政治問題として、浮上することになりました。しかし、尖閣諸島は、つい最近まで、抜き差しならない政治問題として浮上することはありませんでした。それは、尖閣の歴史が、そもそも、東アジアの諸国をつなぐ意味で、欠くことができない島々であることを、2つの国だけでなく、東アジアの生活者の間で共感・共有されてきたからです。それこそが、尖閣諸島だったのです。なのに、今や抜き差しならない政治問題になり、その政治問題が、沖縄島全体の要塞化を強いることにもなっています。75年前、沖縄島が要塞化されて始まった戦争は、しかし、その島で生活し続けてきたし、その時もし続けていた島の人たちに、おびただしい犠牲を強いることになりました。

(次週につづく)


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