(前週よりのつづき)
沖縄に、米軍基地が臨戦態勢そのままで置かれ続けたり、海空一体となる辺野古新米軍基地建設が強行されたりするのは、具体的な「敵」や「戦争」が想定されているからです。東アジアの海の中の小さな島々が、島々として、沖縄島として特別に、独自に「敵」や「戦争」をしている訳ではありません。する訳がありません。「訳がある」のが、米軍基地の米国であったり、そこに米軍基地を置くこと、置き続けることを「無条件」で認める日本・ヤマトです。だったら、その場合の「敵」「戦争」の具体的な相手として想定されているのはいったい誰なのか。その具体的な「敵」や「戦争」の相手として想定されているのが、「尖閣諸島」の日本・ヤマトの「領土宣言」以来、そのことで黙ることをしなくなった中国であるのは明らかです。
そして、仮に「敵」や「戦争」の相手として中国を想定するということには、それ以外の選択肢が無いかのように、中でも、沖縄島の人たちが言う「先島」、石垣・宮古などで、日本軍・自衛隊の基地の建設・強化が進められています。あたかも、中国を「敵」や「戦争」の相手として想定する時、それが当然であるかのようにです。しかし、それらの島々に基地・要塞が建設されるとしても、それらの島々は、その島々で生きる人たちの生活の島です。基地・要塞を建設する、日本・ヤマトは、「敵」や「戦争」が想定される時、基地・要塞の機能は念頭に置くとしても、それをめぐって想定される、たとえば戦争で、島々が戦場になり得る時の、その島々で生きて生活する人たちの日々のこと、それが著しくおびやかされること、ないしは破壊されることには思いが及んでいません。
そもそもが、たとえば中国を「敵」や「戦争」の相手としか想定できない発想の貧しさを考え直そうとはしないのです。その場合も、戦争が自分たち、日本・ヤマトの足もとに及ぶかも知れないことを考えたりもしません。
しかし、と言うか、当然と言うか、全く逆の考え方もあり得ます。以下の理由で、そっちの方が、より自然で、より合理的であるように思えます。そして、それがとても単純で明解であることを論証しているのが「人々のなかにある冷戦世界」(益田肇、岩波書店)です。言及、論証されているのは、世界がそれを信じた「冷戦(世界)」ですが、その言及、論証は、今、沖縄の島々をめぐって想定されている「敵」や「戦争」にそのまま当てはまるように思えます。
「西洋諸国が取り組むべき政策とは、ロシアの共産主義と戦うことでも、彼らの政治体制を覆すことでもない。そうした戦争が発生するのを防ぐこと、そしてソ連と折り合いをつけることを目指すべきなのだ。つまり、その目的とは、戦争ではなく平和、征服ではなく合意であるべきなのだ」(前掲書)。こうして言われていることの、ロシア、ソ連を「中国」と置き換えても、島々を要塞化することではなく、「折り合いをつけること」「戦争ではなく平和」「征服ではなく合意」こそが、島々で生きて生活する人たちの何よりも望むことです。それ以外に、それにしか、島々で生きて生活する人たちの日々が守られる道はあり得ないからです。
参考資料
「海路としての〈尖閣諸島〉」(山田慶兒、編集グループSURE)、
「人々のなかの冷戦世界」(益田肇、岩波書店)
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