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小さな手大きな手

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2021年12月04週
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(前週よりつづき)
 「ひょっとすると恥というのは、わたしがいつも感じている、その感じ方の名前に過ぎないのかもしれない。死んだほうがましだと思いながら人が生きている。そんな生き方につけられた名前なのかもしれない」と言う、J・M・クッツェーの言葉を紹介しているのは、くぼたのぞみです。(「J・M・クッツェーと真実」くぼたのぞみ、白水社)。 恥ということで思い起こすのは、「沖縄の戦争」の「道連れ」にした、時には「集団自決」に到らしめた時の、「日本の戦争」の日本軍の中にたたき込まれた、「生きて虜囚の恥を受けず」の恥です。それは、日本軍のあるべき精神を示す「戦陣訓」の中に示されていて、その中核をなすのが恥です。この恥は、クッツェーの恥とは異なり、決められた生き方を貫かないのは、武器を持って闘う兵士たるものは、「不甲斐ない」とする恥で、その生き方が、たとえ窮地に追い込まれたとしても、戦い切って死なずに「捕虜」となるのは恥であるという「教え」です。ですから、彼ら(日本軍)の戦争では、勝利者となって凱旋する以外、戦争で生きて還ることはあり得なかったのです。こんな戦争をする軍隊の「軍人」ですから、自分の中にたたき込まれた「戦陣訓」を、たまたま巻き込まれてそこにいる人たちに強いることがあってもあり得ることです。沖縄の戦争で巻き込まれた人たちの中で起こった「集団自決」です。その手段としての武器・手榴弾や毒物を与えたりもしました。
 こうして、「戦陣訓」、教えとしてたたき込まれた恥に根本的に欠けているのは、自らを深く内省するところで生まれる心のあり方としての「恥」とは異なることです。こうして、強いられた恥は、軍人ではない島の人たちにも、有無を言わさず強いることになりました。
 沖縄で起こったこと、今も沖縄に強いていることや、朝鮮半島のことについて、日本人として本来は思考すべきことを、思考できなくなっているのは、「恥」や「恥ずかしい」ことについて深い意味での思考ができないからであるように思えます。聖書が記述して伝える、中でもマルコによる福音書などのイエスは、直裁に恥について言及されている訳ではありませんが、恥はたぶん内なる自分を自ら問うこととして理解されているように思えます。たとえば「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った。『みこころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは深くあわれみ、手をのばして彼にさわり『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた。すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった」(マルコによる福音書1章40,41節)。「手をのばして彼にさわり」は、積極的に働きかけたというより、それ以外の選択はあり得なかった、あるいは、「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて」とある、言わばそうした人たちの渦中にいる、逆にいないことの方が「恥」であったからのように思えます。
 こんな事が、ある人、その人の中にいきなり起こるものではありません。人として生まれ、まずは身近な人たちの助けを得ながら人としてかたちづくられる、豊富な子ども時代があってはじめて実現します。そんなことがクッツェーの別の言葉として紹介されています。「子供について、子供時代を十分にもつことについて、人が人を気遣うことについて、慈愛について、生命について、さらに人間を含む動物の生命体について」子ども時代に始まって心を通わせることがあって、もし、それをしない、ないしは逃げてしまうのは「恥」になるのです。しなければならないことをしないのが恥ではなく、しないではいられないことをしないのが恥なのです。
 今、聞こえてくる子どもたちの世界で起こっていることで、「しなければならないこと」に、たくさんしばられていることが聞こえてくる時、子どもたちに起こっている、ないしは子どもたちを形づくっているのは、「しなければならないことをしない恥」であっても、「しないではいられないことをしない恥」であるように思えます。
 日米安保条約、そしてその内実の日常を約束する言うところの「日米同盟」は、究極の力の論理、核(兵器)を根底にすえた軍事同盟です。その軍事同盟の「軍」は、兵庫県西宮あたりでは、日常的に目撃することも露出することもありません。少し東には、その軍事同盟の一翼を担う、第三師団、中部方面総監部が存在しますが、いきなり戦闘車両が公道を走ったり、完全武装の兵士が駆け抜けたり、100デシベルを超える「最新鋭ステルス戦闘機」の騒音に「おびえる」などということは、起こったことはないし、誰も起こるとも考えていません。しかし、そのすべてのことが、同じ日米同盟の沖縄では起こっています。起こっていない兵庫県西宮あたりに住んでいる人たちは、起こっている人たちの起こっている島は、たまに訪れる「ちゅら海」の島としてしか認識しません。もちろん、自分たちの日常では起こらないことがたまに訪れる「ちゅら海」の島で起こっているとしてもその・・の意味は考えない、考えないで済ませていることを「恥」だと思ったりしません。
 とっても、とっても「恥ずかしい」ことなのに。
 前掲の「恥」について「子供について、子供時代を十分にもつことについて、生命について、さらに人間を含む動物の生命体について」などを書く、J・M・クッツェーについてくぼたのぞみは以下のようにも紹介しています。「…そんなふうに登場人物について語らせながら、ここにはクッツェーという作家の「本音」に近いものが透かし見える。うわべを取りつくろうことを忌避して、本来の対話が成り立つ言語条件へのこだわりは深い。個々には、熟考するための沈黙が少ないインタビューでは真の対話はありえないとして、言語のもつ繊細な部分を諦めずに、時間をかけて考え抜いたことばで構築した思考を伝えようとする作家がいる。そんなふうに生きてきた人間の不器用さもかいま見える。沈黙を読みとることで真実を伝えたい、とするクッツェーの深い願望が書き込まれている箇所といえるだろう。
(次週につづく)
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